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なぜ僕らはライフデザインしなければならないのか? 「ポストモラトリアム時代の若者たち」を読んで

どうも、木村(@kimu3_slime)です。

僕を含めた日本の若者の変化が知りたくて、「ポストモラトリアム時代の若者たち」という本を読みました。

「なぜ、ひきこもりや腐女子が生まれるのか?」といった現代の若者に対する問いを、人文学の知見を取り入れて重要なポイントを解き明かす考察が面白かったです。

その内容の全部は紹介しきれないので、今回は、「なぜ若者にライフデザインが求められるのか?」について書きたいと思います。

 

ポストモラトリアム時代の若者たち (社会的排除を超えて)
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世界思想社
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なぜビジネスに適応すること、ライフデザインができることが良しとされるのか?

ひきこもりの社会支援事業を行っている著者らは、「社会に適応して心身に失調をきたすくらいなら、むしろ適応しない方が自然なのではないか?」と気づきました。僕もそう思います。

多くの若者論や教育論では、こうした問い(近代の産業社会が与えてきた進歩の物語が失われつつある中で、「なぜ就職しなければならないのか?」など)そのものを無視し、現在の社会状況や経済状況を前提として、ひたすら若者の産業界への適応を促すさまざまなプログラムを提案している。

中略

実際、現在の教育論や若者論の多くは、もはや労働を「ビジネス」という「金を稼ぐ手段」としてしかとらえておらず、「大人になること」イコール「金を稼ぐこと」という単純な固定観念にもとづくだけで、そこではかつての時代のように労働や教育を社会や文明の広い文脈から意味づける知的能力が失われているように思われる。このように自己や生きる意味や働くことの意味を、もはや社会的な文脈から支えられなくなったのは、すなわち「大きな物語」が「自己の物語」を支えられなくなったのは、どのような経緯に由来するのだろうか?

引用:ポストモラトリアム時代の若者たち

労働は金を稼ぐだけの手段なのか、そんなことはないのではないか」というのは、今の20代の若者は就職活動の時に考えたことがあると思います。稼ぐためではなく、何かビジョンをなすためであれば、何かビジョンを持ったベンチャー企業を探すと良いと思います。はたらくを面白くするSNS「Wantedly」はまさにピッタリですね。

「大人になること」イコール「金を稼ぐこと」という考え方にもとづくと、何としてもお金を稼がなければという気持ちになってくるのは納得です。それで、早期の就職活動やライフデザインみたいな話が登場するのでしょう。

ちょうど聞いていた文化系トークラジオLife 2014/09/27「別のしかたで弱いつながりを読み、ウェブ社会のゆくえを考える」 アーカイブでも似たような話をしていました。Part2あたり。

例えば自分手帳とかになってくると、すっごい細かく、0歳から自分のライフヒストリーみたいなのを全部書かされたり、自分の家系図を書かされたり、自分の将来の夢とか、将来行きたいところとか、これまでどんな病気をしてきたのかとか、どんな贈り物をもらったのかとかこと細かに書く欄があるわけですよ。要するに、すごく俗物的な、現世の中でのライフデザインとかキャリアデザインみたいなものをやらなきゃいけない。それがデザインできるのが良いことだっていう風になっていて。

Lifeっていう番組を始める時にも、Lifeっていう言葉になんでこだわったかっていうと、ライフログという謎の単語が当時流行り始めていて。まさかこんなに簡単にライフログが取れる社会がやってくるとは、Appleがライフログを使って商売を始めるとは思ってなかったですけれども、でも気がついたら僕たちの人生というのはログをもとに、どういう生き方をしてきたのかから、環境が変わっても変わらない価値をもとに、自分でその時々のキャリアをデザインできる人間になろうみたいなことになっている。

引用:文化系トークラジオLife 2014/09/27「別のしかたで弱いつながりを読み、ウェブ社会のゆくえを考える」 アーカイブ

僕は2010年以降のウェブ・ブロガー関係の言質を見ているのですが、「自分の人生は自分でデザインするのが良いことだ」みたいな規範を良くみます。

半分くらいは納得するし、僕もそういうことを言いますがが、「いや待って、なんでそんな適応をしなければならないの?」とも思います。

 

働かない人が排除される社会

労働者として社会へ適応しなければならない状況の背後には、「排除型社会(exclusive society)」があるといいます。「ポストモラトリアム時代の若者たち」のサブタイトルは、「社会的排除を超えて」です。

排除型社会とは何かを説明する例としては、モスキート音が紹介されています。それは若い人にしか聞こえない、高くやかましい音です。足立区では、深夜の公園に若者がたむろしているから、その対策としてモスキート音を発生させる装置が設置されました。でも、そこでは、若者は排除されるものとなっているんですね。若者は多少ハメを外すことはあっても、それは大人になるにつれ治る一時的なものだとは思われていない。迷惑行為をしている若者への対処ではなく、若者全体が一様に排除されてしまっているわけです。

この考え方は、イギリスの犯罪学者ジャック・ヤングによるものです。若者たちの反抗が、彼らの成熟過程の中で意味を持つものとされ受け入れられた社会包摂型社会(inclusive society)と呼び、これが排除型社会と対になっています。日本においては、包摂型社会から排除型社会への進行が進んでいる。なぜそれが進んでいるかというと、フォーディズムからポストフォーディズムへと生産様式が変わり、非正規雇用が増えたという話があるのですが、詳しくは「ポストモラトリアム時代の若者たち」で。

 

排除型社会―後期近代における犯罪・雇用・差異
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排除型社会を踏まえて、ここ20年の労働環境の変化を考えると、「フリーターやニートは、ダメなやつだ」という排除が起こってしまいます。だからこそ、かえって仕事に安定を求めてしまうこともあるのでしょう。社会から一旦外れた時に、戻ってくる可能性があるとは考えず、余計に追い出されてしまう仕組みがあるんですね。

「ふつう」の枠から外れた時のリスクが大きいからこそ、未来のことを考え、キャリアデザイン・ライフデザインしていく必要がある。これは決してポジティブな話ではなく、半分恐怖に駆り立てられているようなものなわけです。排除型社会のことを煙に包んで隠して、ただライフデザインが良いと謳うことは、やはり気持ち悪いですね。スッキリしました。

本書で私たちが追い求めてきた「失われたモラトリアム」、すなわち同じ三〇年のうちに私たちの社会が失っていった「放浪の時間」と「放浪の空間」は、新たな世界に向かう彼らの試行錯誤と既存の世界に対する反抗のなかに生き続けているはずである。

引用:ポストモラトリアム時代の若者たち

 

この文面を見ても、若者が自身の課題で苦しんでいるというよりは、それまでの社会の課題が若者にのせられているという感じがします。重い。

でも、「排除するよ」と言われて、「じゃあ適応しますよ」「ハイハイ排除されますよ」というのも癪なもの。たとえ社会から反発を受けることがあったとしても、新しい働き方・生き方を模索し続けたいものです。

木村すらいむ(@kimu3_slime)でした。ではでは。