どうも、木村(@kimu3_slime)です。
自らの行動を、自らが決めること。自分の人生の意味を、自分で持たせること。自分から状況を作り、楽しむことができれば、人生はいつだって楽しいのです。
今回は、意味をつける力、意味付け力を得る難しさについて書いてみたいと思います。
自分で意味・価値をつけることの人間は最強なのだけれど、そういう人はあまりに少ない。
— 木村すらいむ (@kimu3_slime) July 23, 2016
外側でつけられた意味に飲み込まれる人々
意味をつける力とは、何でしょうか?
先日、日本においてリリースされ人気を集めたゲームPokemon GOを例に考えてみましょう。このゲームについて、どう思いますか?
「海外での評価があったから、素晴らしいゲームだ。」「Twitterでみんなが好きだという評判があるから、あまり良くないゲームだと思う」
この考え方は、「意味を与えられている」と考えます。誰か他の人がつけた意味を、そのままに飲み込んでいるからです。
僕は、この意味が与えられている状況、自ら意味をつけていない状況を、もったいなく思います。
なぜなら、自らの状況が、他社の意味のつけ方によって、楽しくもなればつまらなくなもなるからです。極端に言えば、自らの人生の楽しさを、他人任せにしています。あるいは、自らを環境や社会に委ねています。
もちろん、生まれたての子供は、自らの人生をどうしても親や他人に委ねざるを得ません。そうしないと生きていけませんから。しかし、自分で生きていく力を得られているはずなのに、「自分の方が大人ではない」とか「学歴が」とか「親が」とか「同期が」とかに依存して、自ら決断することを恐れ、自らの意味で生きられないのは、とても残念です。どうして、合わない人と出会った時に、自分の方が間違っていると考えて、自らが環境に合っていないだけだと考えないのでしょうか?
アドラー哲学によれば、嫌われる勇気を持たなければ、いつまでも他人の人生を生きることになります。自信のないまま他人の人生を生きて、それでいいのか? それで生きる意味があると思えるのか? とおせっかいに聞きたくなってしまうのです。
参考:アドラー哲学の入門書「嫌われる勇気」を読んで、好きなことができるようになった
意味をつける力を持つ人とそうでない人との断絶
意味をつける力は、内発性、祭りを起こす才能と似ています。
ブログ物語三昧のエントリ「祭りを起こす才能(=内発性)って、どうやって獲得するものなんだろう?」を引用します(太字は筆者による)。
ニーチェは、知識は大衆にとっては劇薬だ、というようなことを言っていました。内発的にものを考える力がない一般の人々に、広く高等教育を与えてしまえば、きっと無気力化して生きる意欲を失った豚みたいな人間になるだろうとニーチェは予言しています。それが、ニヒリズムと呼ばれるものです。えっと、ニーチェさんってのは、自分の心の中に基準を打ち立てて、それに従って現実を変えるという思考形式を持つ人が、とても少ないってことを言っているんです。逆に言うと、ほとんどの人は、過去の思考形式や現実の構造の奴隷もしくは家畜として生きているのであって、人生をリアルに生きている人はほとんどいない、と思ったみたいなんだよね。だから、自分の心の中に自分独自に基準を打ち立てて(=内発性を持つということね)、現実を自分の思うがままに変えていこう(=現実の構造よりも自分の持つ開智基準のほうが優劣で優位にあるという確信)ということができるのが真の人間、、、彼はそれを「超人」と呼んだんだけれども、そういう人間になるべきだ!と喝破するわけね。
引用:祭りを起こす才能(=内発性)って、どうやって獲得するものなんだろう? またその構造はどうなっているんだろう?
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「ほとんどの人は、過去の思考形式や現実の構造の奴隷もしくは家畜として生きている」という部分に、僕は共感します。なぜなら、僕自身もかつてそういう人間だったからです。
人間は、先人によって既に作られた社会、言葉、枠組み、意味の中で育ちます。そして、その奴隷として成長し、それを抜け出すことがないまま人生を終えるということは、ありえなくはないことだと思うのです。むしろ、そういう人が普通だと思います。
アニメ「PSYCO-PASS」は、人間の危険度を数値化した「犯罪係数」のある世界です。その世界では、高性能のコンピュータがはじき出した「潜在犯」が、犯罪行為をする前に裁かれてしまいます。そして、その世界のほとんどすべての人が、犯罪係数によって裁かれる世界を、法の秩序が守られていると考え、異常だとは思っていないのです。このように、社会にあらかじめ与えられた意味の網目を見抜き、自ら考え、意味を持たせられる人間は、稀であるということがわかります。
ただし、意味をつけられる力を持ったが少ない状態は、今の社会においてはごく当たり前のことです。しかし、やはりそれが普通であって欲しくはありません。
普通であるということは、何らかのメカニズムが働いていて変えがたい、落ち着いた状態であるということです。つまり、意味をつけられる人と、そうでない人が分けている状態が安定であり、両者には大きな断絶があるのです。
そのどうしようもない断絶はなぜ起こるのか、謎である。教育によってそのギャップを埋めるのも難しいみたいだし。
— 木村すらいむ (@kimu3_slime) July 23, 2016
その断絶を埋めようと考えることは、無駄なことなのでしょうか。資質を持った人しか、自らの人生に自ら意味をつけることはできないのでしょうか。
木村すらいむ(@kimu3_slime)でした。ではでは。