なぜ普通の人は異端の人を悪びれずに排除し続けるのか?

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どうも、木村(@kimu3_slime)です。

僕は先日「統合失調症患者と思われる動画投稿者「aiueo700」さんの思い込みであった集団ストーカーが現実化した。精神疾患を持った人とどう接するか?」という記事を書いた。この記事、そもそも公開しようかどうか迷った。でも結局書きました。それが人をネタにして面白がっている自分と向き合うことだと思って。

 

僕がどうしてその記事を公開したかというと、aiueo700さんが周辺に及ぼした被害を言及したいのではなくて、彼を観察し、いたずら・排除しようとする僕ら「普通の人側」に言及したかったから

例えば、次の動画では「普通」の人が異端の人を悪びれずに排除しようとしているように見える。いたずらを仕掛けている人は、おそらく健常者と言われる人。

再生 : 349,065 コメント : 31,602 マイリスト : 1,826

17:11
2016/09/01 10:29 投稿
集団ストーカーに住居侵入され暴行罪をでっち上げられました.aiueo700
集団ストーカーの待ち伏せたり、おびき出したりしてトラブルを仕掛けてまきこんで事件事故を起こしたあ...
これ実話だよね? kore うれしそう ユーチューブ「磐田の 岡崎300 ついていって草 wwwwwwwwwww 草 !? 後日談より警察と判明 おい!それってYO!! (本物の警察です) 撮ったぞ 撮ったのを 俺を

 

僕は、普通の人が異常な人を排除する物語が好きです。興味深いんです。そういう物語には、絶対悪がないんですよね。メタに見ると特定の誰かが悪いわけではないのに、互いが互いを悪いとちゃんと思っている。膠着状態なんですよ。それってその人間関係図の中では解決しない。

互いが互いを悪いと思ってる人間関係って、ただ互いの価値観を明示したところでわかりあえないんですね。「君の価値観はそうなんだ、でも僕の価値基準からそれとそれはひどいものだ」という風に。今の価値基準から抜け出せないと、この評価は更新されない。

人は一人では自分の価値基準から抜け出すことができないと思うんです。だから、他人が外から別の価値基準からジャッジしてもらったり、よりメタ・より具体的な基準を突きつけてもらうことで、価値基準を揺さぶることができるんじゃないかなと。

参考:疑わしきは、自らのレンズ 「文化人類学の世界」と「外車の存在を無視する人達」

たとえ犯罪的・非倫理的・病的なコンテンツであっても、それが現状の価値基準を揺さぶる・破壊するものであれば、それは僕は面白いと思うんですよね。そもそも何が正常か正常でないかって、どうやって決めるのか。それは今までの社会を作ってきた、社会に適応している人が下した判断に過ぎないのではないでしょうか。

 

aiueo700さんの件で思い出すのは、「ひきこもり」の人を取材したドキュメンタリー。数十年前か、その言葉がない頃に初めてテレビ番組として「ひきこもり」という名前をつけて、とある人物に密着した。

「彼を晒し者にするのか」という倫理的な批判もあった。でも、「知りたくない問題・現実に関わらないままでいる」倫理感とはなんだ? 僕はそれならば、人間的な人よりも、人間の屑であることを選びたい。(参考:人間のクズ – ニコニコ大百科

人間の屑でありたい・そういう人が増えてほしいってわけじゃない。けど、まず自分の中にある・普通の人が持ってしまっている「屑的な性質」を自覚しないと、そこから抜け出すことができない。自分が善人だと思っている人に、それは絶対できない。善人とは、自己の価値観が絶対であり、それを疑えない人のことだ。

 

僕は、普通の人が異端の人を悪びれずに排除するのは、その人が特別邪悪だからではなく、むしろ健常に育っているからだと考える。

例えば、「aiueo700さんは、何も悪くない周辺の人に危害を加えた。そして、警察は彼の悪行を裁かない。だから、私刑を行われても仕方ない」という考えの中には、健常な考え方が含まれている。人と人が協力しあう社会で育った人は、人に危害を加える人を排除するように教えられる。「人をいじめるな」と教えられたからこそ、いじめている人がいたら罰しようとする。罰するのは悪意からではなく、社会をよく営むための善意からだ。

 

フーコーは、狂人・精神病について歴史的に調べる中で、狂人は近代になって生まれてきたことを指摘する。理性を人間らしさの証であるとしたことによって、理性的でない人を排除しようする動きが生まれた。これは現代においていわゆる健常な人がそうでない人を排除する時の行動に似ている。フーコーの話は難しいので、入門編として寝ながら学べる構造主義がオススメ。

参考:入門書「寝ながら学べる構造主義」を読む前に、僕と構造主義の出会いの話をする

 

狂気の歴史―古典主義時代における
ミシェル・フーコー
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寝ながら学べる構造主義 ((文春新書))
内田 樹
文藝春秋
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「正しさ」は、普遍の真実ではなく、人が作ってきたものだ。

発達障害という言葉を聞くと、どうしてそれが障害と呼ばれるのかを考える。「それって発達障害と呼ぶよりも、特殊な発達という方が適切だよね」といつも思う。健常者(マジョリティ的な発達)の人が作った社会が障害を認定するのって、そうせざるを得ないのはわかるけど、それでは障害とはきわめて人工的なものになる。

「適応障害」という言葉もそうで、「適応すべき権威」を持った側が適応していくべき方向を決めていて、そこから外れると障害と呼ばれる。障害という呼び方には、「治すべきもの」という意味が含まれている。治さなければならないのは、なぜなんだろうか?

科学コミュニケーション論において、「一般の人は科学的な知識が欠如しているから、科学に不信感を持っている」という考え方は欠如モデルと呼ばれ、批判されている。

参考:科学コミュニケーション論における欠如モデル、文脈モデルとは?

しかし、この話を置き換えた、「精神障害者は社会性が欠けているから、それを埋め合わせなければいけない」という考え方は未だ根強いし、あまり批判されていない。人々や自分自身の中に潜む「普通の考え方」を疑う人が、少しでも増えればと思う。

 

木村すらいむ(@kimu3_slime)でした。ではでは。

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