どうもです。
ふと、こう思ったことはありませんか?「これだけテクノロジーが発達したのだから、もう少し暮らしに時間のゆとりがあってもいいんじゃないか。」
社会全体での生産性は増しているのだから、暇な時間は増えていってもおかしくないはず。仕事を全部ドラえもんに任せたら、毎日が夏休みにならないのだろうか。
引き続き、矢野眞和「生活時間の社会学」を読んでいるのですが、そこでその答えの一つが示されていました。
豊かになればなるほど忙しくなる
早速本文から引用していきます。
経済学者のS.リンダーは次のように述べた。
「富める国々の平均的所得者は、時間に追われた生活をしている。彼は、時間にしばられたレジャー階層(the harried leisure class)の一員なのである。」
豊かになるほど忙しくなる。何故そう言えるのでしょうか?
リンダーの説は、ベッカーの理論に基づいている。消費は時間と無関係な瞬間的行動ではない。ゴルフやテニスはもちろんのこと、コーヒー一杯でも消費するのに時間がかかる。ゴルフクラブを購入して、床の間に飾っておくわけにはいかない。クラブを使ってこそ消費の意味がある。ゴルフは1日がかりの余暇だから、かなりの時間コストになる。
各家庭はものを財のみを消費して活動していくというのが従来の経済学でしたが、そこで時間という概念に注目したのがベッカー。ご飯を食べるにも、単に食事の分のお金を払うだけでなく、購入したり調理したりするための時間がかかっているのです。
ゴルフだけが趣味ならまだ時間のゆとりもあるだろう。しかし、消費財はたくさん出回っており、それらをすべて消費するには、膨大な時間がかかる。私たちの限られた24時間の多くは、余暇を楽しむどころか、財を消費するために振り回される。消費するためには、お金が必要になるから、働き続けなければならなくなる。こうした循環のため、時間はますます希少なものとして実感されることになる。
本を買っても読まないで積んでおく「積み本」という現象があるように、お金を消費しても財を消費しないということはありますもんね。十分な豊かさを既に確保していて、時間が希少になった社会であるからこそそうしたことが起こるのでしょう。食い扶持に困っていたら積み本をすることはありませんよね?
豊かさのパラドックス
つまり、時間と経済的な豊かさというのは結びついていて、豊かになればなるほど、消費するための時間は増えていく。
高度大量消費社会は、買いたいもの、したいことが多くて、なにかと忙しく、時間にしばられてしまう社会だといえる。そうしないと大量消費社会を維持することはできないのである。豊かな社会は、時間にゆとりのある社会ではない。事態はその逆で、豊かな社会は時間がますます不足する社会である。リンダーは、この逆説を、「豊かさのパラドックス」と呼んでいる。
なんということでしょう。インターネットによって楽しみたいものが安く早く手に入るようになったとしても、その分だけ労働を辞めて余暇時間が増えるわけではないのです。スマートフォンの利用が社会的に進んでいるということは、従来の情報媒体にかけていた時間を節約するわけではなく、むしろかける時間を増やしていく。
こうして時間があることそのものは幸せなことだと思います。物質的豊かさもあった上で、時間を使いたくなるようなものがたくさんあふれているのだから。いや、選択肢があればあるほど良いというのは大量消費的な価値観ですかね。メキシコの漁師の話を思い出します。
こうした豊かさのパラドックスを知ったなら、選択肢を知った上で、もう一度考えなおして選択肢を切っていくということで時間的に豊かな過ごし方を考えていきたいものですね。デジタル環境から意図的に離れるデジタルデトックスという言葉があるように、あえて物質的な豊かさを減らすことで時間を得るという動きは加速していくことでしょう。貧しくて娯楽がないという状態から豊かな状態へ脱するときほど単純な道はありません。
一瞬一瞬を精一杯楽しく過ごし、自らの意思で娯楽を楽しみたいものですね。ではまた。
東京大学出版会
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