「時間を守る」ことが社会のルールになったきっかけは鉄道だった?

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時間を意識して行動することで、怠けずにたくさんのものを生産できる。そうした考えに気づき、世の中に時間を役立てる考えを広めたのが18世紀のベンジャミンだった。そんなことを先日書きました。

一人ひとりが勤勉に働くための良い発明に思えたのに、一体どうして21世紀の僕たちは「時間に追われて」しまう感覚をもってしまうのだろう。

時間を守るってことがルールになったのは一体どうしてなのだろう?

引き続き、矢野眞和「生活時間の社会学」を読みながら考えていきます。

 

この世に流れている時間は、地球が回ることを基準にした時間だけではない。

「田舎暮らしだと、時間がゆっくりと流れていく」という表現を耳にしたことはありますよね。

何も田舎だと地球がゆっくり回っているのではなく、農耕などの仕事や生活のリズムが地域独特のものになっているように感じるからなのでしょう。

そうした社会集団がもっている固有の生活リズムを指し示すのが、社会学者ソローキンとマートンが唱えた社会的時間という言葉です。

 

1週間の区分がまちまちである例を挙げて、その違いが市場(マーケット)の大きさに依存することを指摘している。市場が原始的で単純な経済では、取り引きが近隣で行われるため、週のリズムは、3日とか5日になる。一方、広い領域で生産したものを取り引きする大きな市場では、8日以上の週区分も形成される。社会的時間は、天文学的時間とは違って、経済的週間や社会的信念によて決められた質的な「ものさし」である。歴史を遡れば遡るほど、地域独特の時間秩序が、その集団の性質に基づいて多様に定められていた。

 

伝統的社会においては、個人の生活もコミュニティーの生活も独自の時間リズムの中に埋め込まれていた。しかし、狭いローカル・エリアで自己充足的に閉じられていた空間が、社会的活動の空間的広がりによって開かれるようになる。閉じられた時間をもつ集団がお互いに交流するようになると、2つの集団の時間を共時化し、調整しなければならなくなる。

 

実際、日本でも明治以前は和暦(旧暦)が使われていたそうですが、開国後に太陽暦(新暦)が導入されましたね。

 

 

鉄道が各地の時間を統一していった

産業革命が起こる前の社会においては、ローカルエリア毎のやりとりをするのに時間がかかりすぎるので、各地域毎に異なった時間が流れていたことでしょう。

それを大きく変えたのは鉄道である。そう矢野さんは捉えます。

 

鉄道による移動距離の延長は、必然的に都市と地方の交流を拡大させた。地方はその独自の時間を失うことになる。鉄道の時刻表は、それぞれの地方時間に合わせて作るわけにはいかないからである。規則正しい交通を行うために、超地域的な列車ダイヤを組まねばならず、時間の統一が必要になった。少し長くなるが、この辺の歴史的事情についてW.シベル部首の著作を引用しておきたい。

 

(中略)

「列車の時間は、19世紀の終わり頃まで、もっぱら鉄道交通用であった。それは列車の時間表の時間だったのである。だが鉄道網が密になり、それに組み込まれる地方の数が増えるにつれて、各地のち方時間は、共通の鉄道の時間に比べて、ますます分のないものになっていった。1880年には、鉄道の時間が英国では一般の時間となる。ワシントンで開かれた国際標準時会議は、1884年にすでに、世界を時間帯に分けたが、ドイツで標準時が公的に1893年のことである」。

 

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世界的に標準時を設定する前に、一つの国で標準時が定まっていったのは、鉄道の普及がきっかけだった。これは驚くべきことですね。同一の時刻表がなければ鉄道が走らないというのは考えれば当たり前のことですが、各地に同一の時間というものをもたらしていったのが鉄道だったということは全く当たり前のこととは思えません。

もちろん、鉄道以降、時計、電灯、電信、ラジオ、テレビ、インターネットなどの技術はますます世界を流れる社会的時間を均一のものにしていっています。仕事で海外の人とネット電話するということもあるのが現代で、そうなると一方は昼間だけれどもう一方は真夜中ということが起こります。同じ時間が流れているって便利なことだし、恐ろしいことでもありますね。

 

少し話は逸れますが、各地に標準の時間が流れているからこそ、「時代の先をゆく」という考えが生まれてくるのでしょうね。地方に行った時に見る看板が全体的に一昔前のものに見えるのは、都市と同一の時間が流れているという考えから来るものです。流行やトレンドという考え方は、文化の時間変化における傾向を表すもので、どこの国にも同じ時間が流れていると考えるからこそ「日本は進んでいる/遅れている」という見方を生み出すのです。文化まで均一になってしまうのは、便利ではありますがあんまり面白くないですよね。。

 

 

時間を守りなさいという社会規範

話は戻って、そうして標準的な時間が広まることで、仕事に流れている時間も標準化されていきました。こうして、「時間を守る」ということが社会のルールとして成立したのです。

 

いま1つ注目しておく必要があるのは「時間厳守」(punctuality)という生活態度である。これは列車時刻表だけの世界ではない。労働の仕方はもちろん、余暇の交際も、コンサートに行くことも、時間厳守が必要である。集団生活を営むためには、あらゆる生活場面で、個人の時間と社会の時間を「共時化」させる社会的ルールを確立しなければならない。私たちが時間の支配を具体的に感じるのは、この時間厳守という規範だといってよいだろう。学校教育の時間割を思いだしてみればよい。学校が教えようとしているのは、カリキュラムの内容だけではない。児童・生徒が口やかましく教えられているのは、時間ルールに基づいて生活を律する態度である。学校の時間ルールを守ることが、教育の重要な成果の1つになっている。このルールが、工場あるいは社会のルールと同型だからである。

 

「時間通りに仕事をする」ということは社会人として当たり前のことになっています。それは、人と関わっていくことで何かを生み出し生きていく僕ら人間にとっては便利なルールですが、一方で我々を急かすルールです。自主的に課した締め切りに追われるのならば窮屈さは感じないでしょうが、誰かに決められた時間に合わせなければならないと感じてしまったら「なんて忙しい生活なんだ」と思うことでしょう。

 

今回の話をまとめると

  • 産業革命以前は、それぞれの地域にそれぞれの社会的時間が流れていた。
  • 鉄道の普及に伴い、世界に同じ時間が流れるようになった。
  • 同じ時間で労働活動するようになったことで、社会に「時間を守ろう」というルールが普及した。

ということでした。

一人の力で社会や社会の活動リズムを変化させることはできません。「時間にルーズな人間なんだ!」と主張して仕事をやらないでいると解雇されてしまいます。もし、今の生活が時間に縛られすぎていると感じたら、職場を変えたり、住む場所を変えたりする必要があるということですね。例えば通勤ラッシュに出勤しなければならない会社を辞めるとか、1時間に1本しか電車が来ない地域で生計を立てられるようにするとか。ただし、そうしたことをするには時間や経済的豊かさをあきらめることになるかもしれない。

もどかしい。個人にとっても、社会にとっても気持ちいいリズムで生きていくことは難しいことがわかりました。個人の娯楽のために時間を使いたいし、それと同時に社会にも貢献したいとか考えていると、「あんまり時間がない?」と思えてくるのは当たり前のことかもしれません。

日々の暮らしや社会生活を、時間の流れに絡めて分析していくというのは面白い視点です。この本については、まだ面白いなと思う話があるので、読み続けていきます。

今回の話とは関係ありませんが、似たようなテーマをより専門的に扱っているタイム・コンサルタントの日誌からというブログはいつも面白いです。

ではまた。

 

生活時間の社会学―社会の時間・個人の時間
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