毎日更新という習慣の奴隷になっていた
ここ1-2ヶ月、ブログの更新をストップさせていました。
毎日毎日、更新していた習慣をどうして捨てたのか。どこか、停滞してしまっているような感じがしたからです。
ウォルト・ディズニーは、「Maintaining status quo is the same as retreating.(現状維持では後退するばかりである。」と言ったといいます。
「毎日更新」という習慣にとらわれて、ずっと同じクオリティの文章を書き続けているのではないか? 本を読んだり、外に出てインプットを増やして、新しい考え方をもって文章を書かなければ、ブログを書く意味はないのではないか?
そんな考えから、毎日更新にこだわらなくなりました。
習慣は、新しいことをできなくする泥沼である
自分は、どんなブログ記事を面白いと思うのか、自分の胸に尋ねてみます。
最低限の文章力は必要だけれど、文章力があれば面白い記事がというとそうではないのです。
興味関心のある分野の記事は面白いけれど、そうではなく普遍的に面白い記事があるとすれば、それは見たことのない記事です。
誰もやったことのないことや、新しい考え方をもっている記事が面白いと思います。
逆に言えば、システマチックに生み出され続ける文章に面白さを感じません。
予測できるものの退屈さ
文章に限らず、僕はこう思います。
システマチックなものの何が面白いんだ! 予想できるようなものの中に、何の神秘を感じろというのだ。丸出しのパンツのどこにエロスを感じろというのだ。ふざけるな!
少しヒートアップしてしまいましたが、習慣化して予測できるようになったものに面白さはないと思うというです。
例えば勝ち負けのあるゲームだって、勝てるかどうかわからないのであって、余裕で勝てるようになってしまったら何も面白くないです。勝てるかどうかわからない状況の中で、戦術やシステムを作り上げていくのが面白いのであって、勝つための戦術が完成されてしまったゲームをプレイすることに意味はないと思います。
学び続けて、習慣を作り続けよう
「戦術や習慣を作るな」と言っているのではありません。
昨日の失敗を反省せずに同じチャレンジしたり、過去の人間の取り組みを参考にしないということは、人間であることを放棄して動物になることだと思います。
「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」と言いますが、下手な鉄砲を適当に打ち続けているだけでは、獲物に当たる確率はいつまでも上がりません。
いくら新しいことに挑戦することだ良いことだとしても、毎回新しいことを試しているように見えて何も覚えていないのでは意味はありません。その新しい挑戦から何かを学び取らなくては、いつまでも初心者のままということです。
洗練されたものは、長く続く習慣の中から生まれます。最初に作った習慣が最適とは限らないので、一度習慣を作ったらそれを捨てて、また新しく作りなおしていくことで尖ったものができていくのでしょう。
現状に合わせて、習慣を捨て続けよう
自分なりの習慣を作っては捨て、作っては捨て。
習慣化して安定させることばかり目標にしがちなものですが、習慣は作ったら捨てるものなのだと思います。
習慣とは、それが作られた状況において効果的なものです。だから、状況が変わったら、たちまちその習慣の輝きは鈍くなります。
作っては捨てることに慣れたら、その習慣が現在の状況に合わなくなったときにも、すぐに捨てて作り直せるでしょう。
「確立された習慣を捨て続ける」ということは、捨てなくて良い唯一の習慣だと思います。