どうも、木村(@kimu3_slime)です。
僕には、わからないことがたくさんあります。
多くの人には理解できることが理解できず、いつも自分が間違っているのではないかと思ってきました。そして、常識から外れるようなことを、好んで探して見つけてしまいます。
わからないことの一つが、「正しさ」に関することです。
「正義」というと堅苦しくなってしまうので、「正しさ」と書きます。真実性と言っても良いでしょう。
僕は、「正しさ」が好きではありません。いえ、正しさはそう簡単に使えるものではないと言った方が正確でしょうか。
「正しくないものを擁護する気なのか」「正しくないという批判を受け入れないつもりなのか」と言われそうですが、そのつもりはないです。
どういうことかというと、「正しいとされていること」で人を咎めようとすることが苦手です。例えば、「人命を軽視するな」というのは「正しいとされていること」です。もし仮に、公の場で人命を軽視するような話をしたら、不快に思う人がいることでしょう。そのような思想を持つ生徒がいたら、学校の先生はそれを矯正するように教えることもあります。それは当たり前ですし、基本的には良いことだと思います。
ただし、正しさを人に対して使うことが当たり前となっていることが僕は苦手なのです。
当たり前だからこそ、自動的に間違っているものを間違っていると考える。だから、何のために正しさを使うのかは意識されにくい。特に理由がなくても、「正しくないものは正しくない」と言われ続けることになります。(何度も書きますが、「正しくない」と言う人を批判したいわけではありません。理性ある人間は、そうするものです。)
正しさは、いつでも正しい強力な武器で、人を守ることもあれば人を傷つけることもある諸刃の剣です。何のために正しさを使うのか、それを考えている人が増えたらいいなと思います。
僕はそもそも、「正しさ/正しいとされていること」がいかなる正当性を持っているのか、疑問です。
僕は大学で数学を専攻していました。数学科のゼミにおいては、誤りを正すのは当たり前でした。言っていることが真実かどうか、一言一言確かめられます。僕はそこでの、一見して正しそうに思えることもきちんと確かめるまではわからないという、その厳しく正しさを追求する姿勢が、とても良い態度だと知りました。
しかし、正しさに対するそのような丁寧な扱いは、社会において広い範囲でなされているわけではないことにも気づきました。数学科出身の方のツイートを引用します。
https://twitter.com/gungnir500/status/788522469019619332僕は「一切通用しない」とまでは思いませんが、言いたいことには共感します。僕は「一切通用しない」とまでは思いませんが、言いたいことには共感します。
僕は「一切通用しない」とまでは思いませんが、そういう部分があると指摘したくなる気持ちに共感します。
数学の場合は、正しさの前提となるルールを共有しています。主張とするときには必ず証明が求められますが、その論証においては、必ずみんなが共有している定義を使わなければならない。そうでなければ、真実をめぐって話が噛み合いませんから。定義のうち最も根源的な、「当たり前」とされることに出発点は公理と呼ばれ、明示的に共有されています。そこを前提とできているから、正しさをめぐってきちんとした話ができる。
普通の会話や文章、社会において、正しさの前提となるものは共有されていません。これが絶望的に恐ろしいことなのにもかかわらず、いとも簡単に正しさが行使されるのを目にします。
数学のような理論的な学問の場においては、考えるための前提を持って話をします。例えば法律ならば、解釈が委ねられる部分があるとはいえ、明文化されたルールがあります。そうでない場合に、前提を共有していないにもかかわらず、「これは正しくない」と言い切れることが疑問なんですよねえ。
前提が明示的でない話が「正しくない」と言いたいのではなく、そもそも「正しい」どうか、みんなで理解することができないよね?ということ。
僕は正しさとは、基本的に相対的なものだと思っています。人それぞれ、演繹体系も論証の材料も違うわけです。「そんなことを言ったら何も正しいと言えないのでは?」と思われそうですが、「正しいと言えることがない」のではなく、「正しさは、(どんなに正しそうなものであっても)限定的である」ということが言いたいのです。
相対主義について書かれた、Wikipediaの「相対主義への絶対主義的立場からの批判」がわかりやすかったので、引用します。「テアイテトス」は、これから読みたい本。
相対主義は典型的には「いかなる命題も、絶対に正しいということはない」というような主張を含んでいる。しかし「『いかなる命題も、絶対に正しいということはない』という主張自身は果たして絶対に正しいのか、それとも、絶対に正しいということはないのか」という点をめぐる矛盾が発生する。もしも相対主義が正しいとしたら、いかなる命題も絶対に正しいということはないはずなのだが、それならば、「いかなる命題も絶対に正しいことはない」という命題も絶対に正しいということはなく、したがって「絶対に正しい命題」が存在するはずで、それは相対主義の基本的な主張と矛盾するため、相対主義は間違っているというものである。
確かに「間違っている」とは言えると思うのですが、「間違っている」と言わなければならないのは正しさを一元化しようとする考え方です。
繰り返しになりますが、「正しい/正しくない」と言うこと自体はもちろん良いことだと思っていて、否定はしません。ただし、正しさというものは誰に対しても使えるとは限らないし、その良さというものは、他の種類の良さ・他の視点とのバランスを持って評価していきたいなと僕は思うのです。
「正常な人間の考え方」への疑問は、次の記事でも書いたので、そちらもどうぞ。論理を大切にしている人は増えてほしいですが、それだけではないと思う。
なぜ西洋において論理が重視され、日本ではそうではないのか? 近代合理主義と仏教の違い
木村すらいむ(@kimu3_slime)でした。ではでは。