僕は議論が好きであり、嫌いである。

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どうも、木村(@kimu3_slime)です。

僕は議論が好きであり、嫌いです。「好きであり、嫌い? はい矛盾」と言われるから、議論は嫌いなのですが……。

まずは、僕が話そうとしている議論というものについて、説明します。

 

狭い意味での「議論」

ただ二人の人が何かを言い争っていることを指して議論と呼びたいわけではありません。

(狭い意味での)議論を、「ある主張の真偽を確かめる行為」としましょう。

この主張という言葉も、日本語においてはどうも「理屈抜きに言いたい事」と受け止められがちですが、そうではなく論理学でいう主張です。命題、言明、proposition、statement、claim、argumentとも言って良いでしょう。主張とは、「論証によって確かめられるような、真偽の提示」です。

例えば、「1+1=0である」というのは主張です。普通に考えれば、誤りです。なぜなら、その主張を正しいとすると、1+1=2から、2=0という矛盾が導かれてしまうからです。(1+1=0はある種の立場においては正しいのですが、ここではそれは置いておきましょう)

「同じ重さの羽と鉄球があったとして、鉄球の方が速く落下する」「子供の学習能力は、大人のそれよりも高い」どれも、真偽はともかく、主張です。

議論は、真偽を決めようとするために、根拠を出して話し合うことです。

 

やっぱり議論が嫌い

冒頭でも書きましたが、僕は議論が嫌いです。

議論そのものが嫌いなのではなく、しかるべき前提がない状況で議論が使われてしまうことが悲しいのです。

こういう人は見たことがあるのではないでしょうか。議論の勝ち負けを気にする人。自分が正しいと主張するために、相手の主張の細かな間違いだけを見つけようとして、主張を聞こうとしない人。議論が全てであると思っている人。……そもそも、議論は一種のコミュニケーションであり、コミュニケーションは同じテーマを協力して話そうとしなければ成立しないはず

議論を始めるにあたっては、決して見落としてはならないことがあります。それは、話しているテーマがそもそも主張(真偽の決定すること)なのかどうか真偽を決定したいのかどうかです。

例えば学問の場は、真偽を決定しようとする人が集まって話し合いをするため、議論の場として適切です。これが日常会話や、インターネット上だとどうでしょうか。

例えば次の記事のように、比喩としてつぶやいていたことに対して、「数学的に正しくない」議論をしかけるような状況は、議論であるとは思えません。

参考:「ネットの議論が不毛になる」のは、コミュニケーションの「場」を整えていないから。

あらゆることについて真偽を確かめようとすると、とても疲れます。そもそも、真偽が決まるようなことかわからない問題が、社会にはたくさんあるのです。そういう場合には、真偽の議論に持ち込むには慎重になった方が良いと思います。

参考:人を一方向的に裁ける「正しさ」がわからない

 

でも議論が好き

とはいえ、僕は議論が好きです。答えを知ることは楽しいし、正しさを人と共有できることほど嬉しいことはない。

「議論は嫌いです」「人によって意見は違う」と対話をシャットアウトされてしまうと、それ以上人や物事を深く理解することはできません。最初はお互いの考えが反発しあうものであったけど、比べ合わせてみると、「どちらも正しかった」というのはよくあること。対立を恐れず、「自分たち」の殻にこもらない勇気を持ちたい。

僕は、当たり前のように正しいことに、馬鹿のようにつまずいてしまいます。「本当かな?正しいかな?」と話しをするのは、楽しいことです。つまずいたときこそ、人と自分の違いがわかることこそ、楽しいことなのかもしれません。

そんなことを考えながら「文脈ゆるゼミ」をやっています。

 

木村すらいむ(@kimu3_slime)でした。ではでは。

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