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人間嫌いのぼっちが人間に関心をもつようになった経緯

どうも、木村(@kimu3_slime)です。

かつて人間との付き合いを無視してゲームばかりしていた私の最近の興味は,人間とその周辺に移りつつある.そのことに興味を持っていることを自覚するまでのプロセスを,人間に対する認識の移り変わりを中心に,軽く話そうと思う.

人間をわかることがなかった

自分以外の人間がいることに気づいた幼いころから高校生までの自分にとって,人間はよくわからないし,共感できないものであった(今も根本的なところはあまり変わっていないかもしれない).

学校にいくと,近所の人や,同級生や,先生という人間に会う.接する時間が比較的長いのは同級生だ.人間と接していて,典型的に違和感を覚えるのは,自分の関心の極端さだ.意地の悪い先生や,自分の持っているゲームなどの話題なら,同級生と話そうと思える.ところが,話題になっているらしい漫画,ドラマや芸能の話には,まるで関心がもてなかった.ハマればドハマりするし,一見してハマらないものは一切調べようとしないタイプの人間だった.そして,関心のない話をする人と,友達になろうと思えなかった.

小学校高学年くらいになると,同級生の多くは,友達をつくっていた(ように見えた).一方で,自分は友達をつくろうとはしなかったし,誘いかけに応じなかった.自分に社会性が欠けているとは思いながらも,それを修正する気にはならなかった.社会性があると思われるために,あるいは友達になりたいがために,関心のない話をするのは,自分を偽って見せる行いであり,それは人間である相手に失礼だと思ったし,失礼だと思うことを他人にするのは自分のプライドに反した.

中学生の頃は,反抗期か,僻みなのか,同級生の多くを,集まらなければ不安になってしまう人間として内心見下していた.高校生の頃は,クラス内でいかに一人で快適に過ごせるよう振る舞うかを心得て,一人で生きる人間としての悟りのようなものが身についてきていた.小中学の頃の学校と少し離れた高校だったからか,あるいは周囲の人が大人になってきたからか,近くに居ても良いなと思える同級生が数人見えるようになっていた.

幼児期、少年期を通して,「友達になろう」とする人間が苦手であった.自分が友達だと思えていない段階の人間から,「(俺とお前は)友達だろう」と言われると,反発心を抱いた.個々の人の気持ちを考えずに,一方的に仲良くなろうとする行動を,搾取的暴力的だと思っていた.

今から見ると,この頃でも,既にどこか人間というものを信じていた兆しが感じられる.夏休み家族以外の誰とも会わなかった人間であり,経験の少なさから少し歪んだ認識をもっていながらも,理想を見ていた.人間には誰にも人間としての姿があり,それは容易には理解できない.その人間としての姿を軽視したコミュニケーションは,人間としてのコミュニケーションではない.人間として親しくなりたいなら,相手のことを少しずつ知りたくなる気持ちをもって,相手を第一に置いて,わかったふりにならないような接し方ができるよう努力したくなるはずだ,と.

人との話が楽しいと気づいた

国語や歴史などの科目には,観点の持ち方がわからなかったため興味が持てなかったが,いわゆる理系の科目は,一人でもその考え方を部分的に身につけることができて,興味が持てた.受験勉強をして,地元から離れた大学へ行った.勉強の動機,大学に進学する動機などはここでは置いておこう.私は,自分自身を,一人で生きるのに適した人間であると考えていたから,高校生の頃と同様にぼっち生活を続けるられるような振る舞いをしていようと思っていた.

ところが,ふとしたきっかけで入ってみたサークルで,話の合う人間というものがこの世界に存在することに生まれて初めて気づいた.心の何処かで,自分と少しは気の合う人間の存在に期待していたところはあったのかもしれない.そこでは,人との接し方にそれまで感じた不満をあまり覚えることなかった.特に,人の考え方の違いや対立をきっかけに,関わる人間の経験や過去をだんだんと知りながら,人や社会について話すのが好きだった.

この時期に得た洞察として面白かったのは,人間であるから,あるいは賢いからといって,人間に興味があったり,人間をよく理解しようとする動機,人間をよく考察する能力があるとは限らないということだ.大学に入って,周囲にいる人間の思考の速度は,高校までに会った人に比べて,平均的に速くなっていると明らかに感じた.ところが,勉強のできることと,自分の専門以外のことに対する認識の正確さや,コミュニケーションの上手さにはあまり関係がないと感じることがあった.そのときの自分には意外なことであった.今からすると当たり前に思える.物事を素早く考察することと,考察を的確に行えるようにすることには,必然的な関係がないし,受験で後者は検査されているわけではないから.

言葉を書いてものを考えることのもつ力に気づいた

大学に入ってからは,自分で文章を書く機会が増えた.文章を書くことに関連するサークルに入ったり,Twitter の存在を知って Twitter にはまったり, Evernote に自分の考えをまとめたりした.高校生の頃は,パソコンで物を書くといえば,事実を記録するか,面白いアイディアをメモ帳にメモする程度であった.

Twitter にはのめり込んで,少し根本的な問題に踏み込み過ぎて苦しくなったりしたが,その辺りで言葉を使って物を考えることの強力さに気づいた.書いて考えることは,教科書にあまり書かれていないし,周囲の人間もあまり認識しているようには見えない話で,若いうちに奇跡的に気づくことができて良かったとその時思っていた.その頃から,少しだけ書くことが好きになった.私は,自分を,話すことが苦手で,何も考えられていない人間なのだと思っていたが,そこからは,私も自分なりの考えを持っていると自信がもてたし,それをゆっくりと成長させようと思うようになった.

このことは,人の語りを聞きたいという気持ちを強めるきっかけとなった.話したり書いたりすることが苦手に見える人間でも,生きているからには持たざるを得ない考えというものがあって,適切なサポートがあればそれを引き出すことができるだろう,と.人間の考えというものが,そこに実在感をもって存在して,それが人の行動に根本的に関わっているということを信じられるようになった. 書いて考えることについては,また別の機会にここで書いてみたいと思うネタの一つ.

素朴に持っていた理念を記録しても上手く役に立たない

自分の考えを書き出す喜びを知った私は,私自身のもっている倫理観や,人生における目標を,体系立ててまとめようとした.”はじめてのGTD ストレスフリーの整理術”という本から得た,GTD(Getting Things Done)の考えにはまっていたことも影響している.将来何をして生きるのかを考えるのに,自分の考えをまとめることが有効だと思っていた.

一人用の Twitter アカウントに思いつく限りのことを書き,それを Evernote で整理した.似た内容のツイートをまとめ,上位の価値観を抽出した.3万字程度の文章になった.ここで身につけた,大量の小ネタをまとめて,意味ある文章を生成する方法は今も役立っている.

しかし,抽出した文章は,実際的ではなかった.理念に寄りすぎて,どんな決断を下すかということにはあまり使えなかった.決定的なのが,書いた考えは,時間が立って物の見方が変わると,古臭くなってしまうということだ.あくまで,その時の自分の書いた考えとしてしか役に立たない.それでも,時々見返して,あの時の自分を思い出したり,今の自分の考えと違っているところを見つけるのに役立ってはいる.

これは,人間について記述,記録することの難しさを知るきっかけとなった.できるだけ長い間,できれば多くの人間が理解できるように,人間を記録するにはどんな形式が良いのだろうか.そういった記述を求めることよりも良い方法があるのか.今後考えてゆくであろう話題だ.

知的生産は技術であると知った

大学で研究に取り組もうとするようになって,理論的な学問における成果の生産はどのように行えばよいのだろうということが気になり,本を読んだ.関心,観察,仮説形成,真偽の予想,実証と反証,考察といった知的生産のプロセス自体は,科学研究の内容からは離れていて,本を読んで考えておこうと思った.

このことについて印象に残ったのは,”人間に何が分かるか―知識の哲学”という本である.その本では,あらゆる知識が,”生活知”,”技術”,”科学”,”哲学”に分類されている.”技術”は,役所での手続きの仕方などを含む生活知よりも高度なもので,口伝えや師弟関係で実践を通して学ぶような知識の総称である.科学活動も,その実践には技術に分類される知識が必要であり,人間の活動なのだという実感を強めた.

このような知識の分類を知って,改めて自分の関心を考えると,科学に必然的な興味をもっていない自分に気づいた.元々は,理論的に考察できることについての基礎を身につけたいと思って,理系の学部へと入学したのだった.ところが,生活知や技術に分類される知識のような,体系化されがたいが身近なことのほうが,自分が普段個人的に考えてきたことの関心に近いと思った.Evernote での自己分析のおかげか,この頃には,自分は,公的に意義あるとされる関心に影響される人間でありながらも,私的な関心に強く動機づけられてする行動を尊重したいと思うようになっていた.

談話が多くの情報を含んでいることに気づいた

まともに人と話をしてから,会話そのものに,だんだんと興味を持ち始めていた.会話では,きちんと言わなくてもその意図が伝わってしまうことがあるし,逆にきちんと言ったからといって意図が伝わらないこともある.また,談話や小説は,音や単語が並んだだけではない,その組み合わせによって意味を生みだしていることを,ひどく面白いと思っていた.人をよく理解するときに,その人の背後にある文脈を読み取ろうとすることも好んで行っていたので,文脈の読み取りにも関心があった.

ちょっとしたきっかけから,言語学に興味をもち,少し基礎的な教科書を読んだ.言語の意味,言語に対する認識を学問にすることは,今現在も発展中の内容であるということを知った. 私の元々の関心は,一つの文における意味の多義性を体系立てて理解することではなく,文の組み合わせにより暗示的に生み出される意味について考える方法だった.言語学近辺で本を調べて,談話やディスコースの分析と呼ばれるものが自分の関心に近いとわかった.

そこで出会った,”談話分析のアプローチ 理論と実践”という本は,談話の中にある明示的な発話から,その人の意図などの暗示的なものを考察する方法を紹介してくれた.学問として明らかになっていないことが多い以上,主張に厳密性をもたせることは難しいわけだが,明示的なものを根拠に考察するスタイルは,説得力をもっていると思えた.

談話分析は,社会学,文化人類学,歴史学などの,文脈の読み取りと解釈を行う学問への関心と繋がった.会話をしたりされたりする,文章を読み書きするのは,ほかならぬ人間であるということ,コミュニケーションにより人間の認識は変化するし,人間の認識は社会と相互に関わっているということを強く認識した.この辺は,まだ基礎的な教科書を読んでいる段階で,これから理解を深めてゆきたい部分である.

 

ここまでくると,人間に実利を求めない関心を持っていることに気づいた自分の姿がある.最近は,社会に出て実際に人間と関わってみたい,そして考えたり書いたりしたいという気持ちをもっている.どのような形で人間と関わりたいか,関わることができるかは,これから次第ということで.

木村すらいむ(@kimu3_slime)でした。ではでは。