どうも、すらいむ @oily_slime です。
「科学技術コミュニケーション入門―科学・技術の現場と社会をつなぐ」を読みました。
東日本大震災発生後、”安全神話”を守ろうとする電力会社や政府への憤りの話を、マスメディアやネットなどで聞いたことがあるでしょう。
イタイイタイ病、BSE、災害後の原発。そこには、共通して「安全性」をメディアに向けて公表した権威のある人々がいました。
どうしてそう主張したくなってしまうのでしょうか。安全性を主張する人々は、ただ特別に悪人であったとは思えません。
発生した問題について、専門家の間でもリスクなどについて共通見解が得られていないような状況を想定してみましょう。今回は、 ぼくがその問題について公に責任を持つ立場だったとして、どうして「安全である」状況を保ちたくなるかを考えてみました。
1.科学コミュニティでは、黙っていれば非難されない
真実が未解明な状況において、論文として「問題が起こっているのかもしれない」と主張すると、不確実な主張をしている、誤った主張をしているとして非難されることがあります。東日本大震災後は、「あの専門家は御用学者だ」という胡散臭い発言も、ネット上で見られました。
仮に科学者に社会的な責務があったとしても、黙っていればそれほど矛先は向きません。ぼくは理系の大学院生なのですが、この構造はなんとも気持ち悪いですね。社会的責務を果たす科学者が軽視され、産業や軍事、政治に貢献する科学者しか、科学者として予算を獲得できない時代になったら恐ろしいです。
2.責任の所在を曖昧なままにしておけば、保身ができる
前項と少しかぶる内容ですが。情報発信をすると、その責任を人々に問い詰められます。どの団体に責任が押し付けられるかわからない状況では、何も言わないことが責任を取らないための有効な手段になるのです。
「ナントカ電力が管理しているから、安全である」と言っておけば、間違っていた時にもナントカ電力に責任を押し付けられる。事実の検証を遅らせようとする動きも、責任を曖昧なままにしておきたいという動きがあるのでしょう。
3.「確実性」がないから、何も行動しない
「種を超えて伝染病が感染するという確実な証拠はない。だから、判断は保留とする。」こういう言い方はできてしまいますよね。科学における正確性を重視するあまり、社会的な判断をすべき状況であっても100%の確実性を求め、判断を遅らせてしまう事はあると思います。原因の解明ばかりを求め、統計的な推定による対応策を講じないことも、この項目でしょう。
「確実な証拠もないのに、対策をするのか」という疑問とも板挟みになります。考慮すべきはリスクのはずですが、信憑性に目を奪われる。
「ぼくの判断では大した問題ではない。ただし、ぼくの判断が間違っていたら大変なことになる。」という態度は、不誠実です。
4.起こりそうもない重大な危険性は、無視したくなる
「BSEで亡くなったのは、英国にいる700万匹の猫のうち、たったの一匹だ。だから、心配する根拠も理由もない」
重大な危険をもたらす可能性が日常の中にあることに気づいたとき、そんなことは起こらないだろうと期待してしまう。いわゆる正常性バイアスと呼ばれる心の動きです。人は日常の中にあらわれた異常性をすぐに認識できません。
自分自身の心の動きに敏感になり、周囲の人が何もしないのはおかしいのだくらいの気持ちになれるよう訓練しておくことが対応策ですかね。
おわりに
いかがでしたか。ぼくも気をつけていなければやってしまいそうなことばかりです。発言力のある人が安全性を主張しているときに、どんな理由が働いているのかを考察するきっかけとなったら幸いです。
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