いま、ぼくはぼくの出発点を探している。
ぼくの出発点はどこにあるのか、迷っている。
そこで人生の先輩方のお話を聞いて考える。
昨日、人とお話する機会があった。
書くことで収入を得ている人に、”なんで書いてるんですか?”と聞かせていただいた。
仕事の結果、文章からは見えないもの。
何の意味があって、書いているのか。
これまでの体験や信念と、書くことはどう結びついているのか。
人と会うと、いつもそんなことが気になっている。
その問いまで辿り着く機会は少ないが。
ぼくが人の後ろ側を見るような問いかけを好んでいると自覚したのは、大学に入ってからだった。
ヒトという生き物は、寝て、食べて、やることをベースとして生きている。
人間はそれに加え、何かをすることにこだわっている。書くことにこだわる人がいるように。
その執着は、どうしてか、人によってばらけている。
どのように行動するかの違いは、近くで外から見ていればある程度わかる。
けれど、何のために、その行動にこだわっているのかは、じっくり話してみないとわからない。
親しくなりたいと思った人とは話す機会を伺う。
長く生きていれば、つらく苦しいことだってあるだろう。
それでも生きようと動いているのは、なんでなんだろう。
一体あなたは、普段何のために動いているのだろう。
そんなことを考えながら、最近何してた?とか、あのときどうしてた?とか話をふる。
ダイレクトな質問をいきなりされても、何を答えてよいかわからないものだ。
好きなものや嫌いなもの、昔のことからこれからのこと、今のことについて話し合っていく。
ここは同じだね、ここは違うね。そんなことを見つけていく。
そうしていくうちにだんだんと、他の誰かではないあなたが見えてくる。
あなたのことをよく知っている人は誰だろう。
Web での文章公開で、多少簡単に知り合うことができるようになってはきたが。
そこで一方的にわかることはできても、わかり合うことはなかなかできない。
ぼくのことをよく知っている人。
それは、共に同じ空間を過ごし、近づきすぎず離れすぎず話した、身の回りの人に他ならないと思う。
身近な人と話し合ったからといって、それだけでいいとは思っていない。
わからないことを認められずに、わかったふりをしてしまうことが多いものだ。
相手が思うあなたと、あなたが思うあなた自身が分かれたコミュニケーションは、きっとつらいものだろう。
思い込みで済ませず、わかり合おうとする姿がすきだ。
いざというときに助けてくれる人。
いざというときに助けられる人。
それは、あなたとよくわかりあっている人だ。
身の回りの人とお互いにわかりあって、わからない部分を認め合って、人間は生きてきたのだ。
身の回りの人に傷つけられ生きてきた。
身の回りの人に助けられ生きてきた。
だからぼくは聞くのだ。わかりあおうとしてみませんか、と。