”自分にわかる話なのかを意識しながら、人の話を聞く”
これって当たり前のことだと頭の中で思っていた。
けれど、文章にして読んでみるとそうでもないな。
どうでしょう?
ぼくは、自分がわからないことをわかったふりをするのが苦手だ。
”わからないことはわからないのだ”と気づけなければ、いつまで経っても何も学べない。
楽でいることを理由にして、わからないでいるという選択肢を取りたくない。
わかったふりをして一時しのぎできても、きもちわるい。
わからないことに悔しさを覚えるのは、どうしてなのだろう?
5歳くらいの頃、割り算ゲームの計算がどうしてもわからなくて、泣いたことがあった。
昔から、自分がやろうと思ったことができないと、自分はこんなものではなくできるはずだと集中して物事に取り組む傾向がある。
興味がないことは、やっていてもやろうとはしていないので、できなかろうが気にはならない。
例え難しくても、本当に面白いと思うことに取り組みたい。
ただし、難しいことは、大抵やるのが面倒くさいことだ。
だから、難しくて面白いことをやれるように、ぼくには悔しさの気持ちがあるのだろう。