当たり前とはなんぞやとか考えていたら、言葉遊びで空回りで先に進まなくなった。
そもそも、当たり前について考えているときのぼくの頭の中はどうなっているのだろう。
どんな順序で、物事に気づいていくのだろう。
今日は、編集なしで書いた結果をそのまま記事にしてしまおうと思う。
抽象的なまま考えていてもしかたがないので、例を出そう。
「毎日ブログを書いている」このことについて問うてみよう。
これはもはやぼくの中では、当たり前のことになっている。
朝起きた時には、昨日考えたあのことを書こうかなとか考えたり。
日中の経験のことを書きたいから、出かけて夜帰ってきてから書こうと考えたり。
どうして毎日書いているかなんて、考えながら書いていない。
ただ書こうという意識が発生して、書いていて楽しいから書くのだ。
思い返せば、毎日書くようになった経緯は説明できる。
ブログを書いている方のイベントに行ってみて、継続して書いている人がいかに少ないかが心持ちとして理解できたからだ。
書き続けることは、客観的には難しいこととされることなのだろうが、ぼくにとってはブログくらいなら回していけるだろう、と。
こういう経緯の説明って、ぼくは基本的に後付で表面的で本質を表していないと思っている。
当たり前のことについて説明する動機なんてないのだし、説明しようとしたら理屈をこねあげる必要がでてくるのだから。
さあそろそろ文章が長くなってきた、どこに落とし込もうか。
宣言したとおり、書いた結果はそのまま文章にできたので、大部分の目的は達成だ。
じゃあ今回の書いたものを、一段上から整理してまとめよう。
第2-第5段落の内容をふりかえる。
テーマを決める。
テーマについて思うこと。
意見と理由。
テーマについて思うこと。
意見と理由。
意識はしていなかったけれど、規則性があるものですね、たまたまかな。
対象設定を明確にして、そうすると言いたいことがでてくるので言って、無理くり理由をつける。
タイトルはどんなもんだ。
今回書きながら考えてわかったのは、当たり前についての説明は信用ならないということだ。
自分の当たり前について解説をつけることはできるが、つけてみたからといってどうだというのか。
うーん、そういうことじゃないかなあ。
書いたことや考えたことは、信頼できないけれど全く無駄というわけじゃない。
内容よりも、書いたり考えたりするという行為が意味をもつ。
これまでにない方向に気持ちを動かす手段が、書いたり考えたりすること。
うん、それっぽいかな。
人間、これまでにないことを思い浮かべるのは難しい。
自分以外の人間の立場にはなれない。
そんなときは、書きながら考えてみればいい。
書いた内容がまとまっていなくてもいい。
書いてみさえすれば、自分がどんなものの見方をしているかわかって、これまでにない気持ちを味わえるだろうから。