すげーなと思うことがたくさんがあって、それについて際限なく話せる人を、うらやましいと思うことがある。
好きなこととか、面白いことって、ぼくの中にはふわふわーっとある。それをこうしてブログに書いていたりする。
ただ、それを「人に語って聞かせたい!」と思うほどに強い思いをもっていない。
いや、もっているのかな、こうして書いているわけだし。
矛盾するようだが、自分の意見が通るかどうかを、どうでもいいと思っている節がある。
”何かに参加して面白いことをしたい”よりは、”面白いことをしている人を見ているのが楽しいから、その応援をしたい”ってタイプだ。
自分の言いたいことが通っているかどうかなんて、どうでもいい。
どうして、言うよりも見て調整する側に徹してきたのか。
そういうことにはしたくないのに、次のような理由がでてくる。
家族内での感情的な喧嘩を見ているのが嫌だったからだ。
そして、「喧嘩をするのをやめろ」と怒鳴りこんでも仕方がないと思っていた。
冷静でない議論に、ぼくがさらに自分の意思を表示すれば、余計に混乱するだけだ。
そう考え、細かい言葉のあやに惑わされず、意味のある話ができるように、家族の間をとりもっていた。
涙を流すような人がいる場所では、ぼくは自由に意思表示をできない。
そういう臆病さから、見る側でありたいと思っている。
書いてみて、ちょっとは考えられたのかな。
”自分で決めるのが怖いから、「どうでもいい」ということにしておこう”という考え方を、ぼくはしてしまうことがある。
そうしているときに、心のどこかに引っかかりがあって、それがぼくをこうして書くことに向かわせたりする。
どうでもよくないこと、語りたいことが、きっとある。
ぼくは、「どんな人でも、普段は語りにくいけれども、本当は語りたいことを必ずもっている」と信じている。
その本当に語りたいことを自由に話せている人のことを面白いと思う。
ぼくが人の話を聞きたいと思うのは、身近な人が本当に語りたいと思っていることが何なのか気になるから。
ぼくがこうしてブログを書くのは、身近な人がブログでも何でも書いて好きなことについて語ってくれたら面白いのに、と思っているから。
「面白いことをする人が増えたらいいなあ」と願うことが多いので、だったら、自分もその面白いと思う人にはならないとだよなあ、と思うのでした。