客観について考えていくと、自分の主観を見失う
面白いと感じるかどうかを考えるときに、客観的に面白いかどうかみたいな思考を挟んでしまう。
「普通の人のセンスに合うかどうかはわからないけれど、これは面白いな」といったように。
普通の人なんてどこにもいないってことはわかってるのに、頭の中には標準的で正常な人というものを想定してしまったり。
だけれど、それって自分が楽しむためにはいらないものだ。
世間的に面白いと思われそうなものを想定して、そこからセンスが外れた自分を卑下することになってしまう。
自分が第一に面白いと思うかに、他人がどう思うかなんて関係しない。
世間ずれを恐れて人生楽しめないのはもったいないぞ。
他人の感情のコピーにならない
人に合わせるってやっかいな習慣で、興味ないものにも興味をもつフリをしていたりすると、自分の感性が鈍ってしまう。
それで人と合わせることに満足するのならいいのだけれど、そうでもないのに他人をトレースしてもしょうがないよ。
僕はこれまで優柔不断で、他人に決断を任せてしまうことが多かった。それは楽であるけれども、つらいことなのだ。
だって、判断する回数を減らしてしまえば、自分の好きなものとか、自分がどんなものに惹かれるかとか、わからなくなってしまうから。
自主的な行動が人生を楽しくする
やることがなくて退屈していた時期に比べて、最近は生きていて面白いことが多い。
面白いかどうか前もってわからないときでも、とりあえず何かをやってみるからだろうか。
行動することで、自分が何を面白いと感じているかが経験に蓄積され、ちょっとずつ自分というものが見えてくる。
活動として絶対的に面白いことというのは、存在しない。たとえ探して見つけたとしても、それは気のせいで、うつろいゆくものだ。
どんなに面白そうに見えることでも、なんとなくやらなくちゃいけないかなという決断で動いていたら、面白く感じることは一生ない。
自分で選び取ったことだからこそ、力を入れて取り組めるし、そうすることで面白いと思える瞬間が増える。
外側にある定規に頼って面白いものを選ばされるのではなく、自分の体験から選びとっていこう。