どうも、木村(@kimu3_slime)です。
僕は、一人ひとりテーマを決めて本を読む勉強会「文脈ゼミ」を始めました。(参考:【参加者募集(一時停止)】ゼミって何をするの? 文脈ゼミの手引きその1)
「ゼミ」はマニアックだから人が集まらないかも……と思いきや、興味を持ってくれる方がいました。嬉しい。
参加者は4人として締め切らせていただきました。一人で4人を同時に受け持つことになるので、ひとまずこのくらいにしておかないと僕の時間的余裕がありません(笑)
さて、文脈ゼミについて手引きとして書いておきたいことがたくさんあります。
今回は、なぜ学校以外の場所で「学ぶ」のか、ぼくのこれまでの経験を中心に書こうと思います。長くなりますが、おつきあいください!
この記事は単に普通のゼミについて書いているので、「インターネットでやる意味」の手引きを書きたい。 / 【参加者募集(一時停止)】ゼミって何をするの? 文脈ゼミの手引きその1 https://t.co/QShLNahgZa via @kimu3_slime
— 木村すらいむ (@kimu3_slime) May 5, 2016
目次
- 学校の勉強が嫌いだったけど、学ぶことは好きだった
- 知育おもちゃと、公立小学校のレベル差
- 高校レベルまで学べた公文式と、受験勉強を目指す中学校教育
- ネットを駆使して手に入れた参考書と、勉強時間を管理する高校教育
- 学校がつまらないなら、自分たちで楽しく学ぶ場所を作れば良い
学校の勉強が嫌いだったけど、学ぶことは好きだった
今でこそ「学ぶこと大好き!」みたいな人間に見えますが、小学校から高校まで、総じて勉強することが嫌いでした。でも、学ぶことは好きだったんですよね。
知育おもちゃと、公立小学校のレベル差
僕は、1992年(平成4年)、群馬県高崎市に生まれました。
小学校に入る前は、なぜか数字が好きでした。ひたすら側溝の蓋の数を数えたり、走っている車の数を数えたり。
ボタンを押すと掛け算九九を覚えられるおもちゃを買ってもらい、掛け算九九を楽しくやっていました。
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また、テレビとつなげるおもちゃ「キッズコンピューター ピコ」は、当時としては先進的でした。絵本の形をしたソフトのページをめくるとテレビの画面が切り替わり、ペンタブレットでお絵描きできます。20年前のコンピュータですが、iPad並ですね。
6歳になり、家から近かった高崎市立城東小学校に入学。
こうした知育のおもちゃに触っていたおかげで、公立の小学校に入ってからの勉強は退屈でしたね。
算数の授業について言えば、2年生の時点でようやく掛け算九九を覚え始めます。「それ、知ってるんだけどなあ」という授業を2年経験しなければならない。
知っている内容に合わせなければならない授業ほど、つまらないものはありません。
みんなが算数で勉強している間に、より進んだ算数を学んだり、他の科目を学んだりできれば良かったんですけどね。
今から見て、この時点で、既に僕は(公立)学校教育のターゲットにされていないのではないか、と思ってしまいますね。私立の小学校を受験させる親の気持ちがわかります。
高校レベルまで学べた公文式と、受験勉強を目指す中学校教育
小学校を卒業した後は、家に近かった高崎市立大類中学校に入学。
中学校時代で面白かった学びは、公文式でした。
公文式の良いところは、一人ひとりが自分にあったペースで学ぶ内容を選べること。毎回宿題となるワークがあるのですが、それも自分の大変さによって量を調整できます。
公文式では数学のみをやっていましたが、中学生の間に高校3年生レベルの微積分を学べました。論理的思考力についてはちょっと弱いところがありますが、計算力がメキメキつきますね。
あと、小学校に入るか入らないかくらいの子供が、公文式の教室で英語の歌を楽しく歌っていたのも印象的でした。中学校で恥ずかしがりながら英語の発音をしている生徒とは対照的。僕が親なら、子供と一緒に一度は公文式の見学に行きたいですね。
これと対照的だったのが、「良い高校」に入ることを目指す中学校教育です。
中学校に入ると、既に受験競争を意識した勉強が始まってきます。
僕をどうしようもなく勉強嫌いにしてくれたのが、定期テストです。知っていますか、公立中学校のテストは、大部分が教科書併用ワーク教材の焼き直しです。
これが何を意味するか。宿題をきちんとやって、ワークの内容を暗記した人が点数を取れるのです。毎回の授業で穴埋めのプリントを配布してノートを取らせ、その内容をきちんとメモした人がテストによって評価されるのです。生活指導もそうですが、「先生が言っていることを言い訳せずに飲み込む」人が評価されます。
そして、テストの点数が良かった人は通知表が良くなり、推薦によって良い高校に進学できる。中学三年生になると、地元の名門公立高校である高崎高校、高崎女子高校、それに準ずる良い高校に行きたがる中学生が増えていきました。
「考えさせる」のではなく「覚えさせる」学校の授業に、僕は嫌気がさして、宿題に取り組む気力をなくしました。そんな僕は中学生の間、家でずっとゲームをしていました。夜にかけてゲームをして、昼間は学校で寝る。
「良い高校に入るために、ちょっとは勉強した方がいいんじゃないか」という親の勧めで、中学2年の冬に「ワセダゼミ」という塾に入りました。が、ただ良い高校に入るための受験テクニックが多く肌に合わなかったのと、夜中の24時頃まで拘束されるのがつらかったので、3か月でやめました。
そういう生活だったので、まるで勉強はせず、通知表は良くない。
夏休みの課題はできるだけ出さない。宿題もできるだけやらない。授業は寝ていることが多い。いかに勉強関係の時間を減らし、ゲームにつぎ込むかということを考えていました(笑)
そんな状況だったので、推薦入試は無理。一般入試で、公立の高崎北高校に進学しました。
ネットを駆使して手に入れた参考書と、勉強時間を管理する高校教育
さて、高校に進学すると勉強の環境は少し良くなりました。
数学の授業では、学習進度別のクラス分けがありました。学年が同じでも、こういう工夫があると助かります。高校2年になると、理系文系のクラス分けがあって、より密度の高い授業は増えました。
とはいえ、きつかった思い出があります。試験週間になると、各科目の勉強時間を一人一人記入させ、担任に提出するという制度です。
正直に、0~5時間と記入すると、担任から呼び出しがかかります。「ねえ、木村くんはどうして勉強していないの?」と。「数学とか英語とか理科は、点数取れれば勉強しなくても良くないですか?」と答えて、呆れられていたと思います。
進路指導をする先生も、「私は、1日10時間とか死ぬほど勉強してペケペケの大学に受かった。死なないから、勉強してみなよ」という感じ。「え、頑張ったからって勉強できるようになるわけじゃないよ……(なんで良い大学に入ったことを未だに誇りにしてるの?)」と思っていました。自称進学校あるあるだとは思うんですが、「受験は団体戦」、「勉強は苦痛、だけど良い大学に入るため根性で乗り切る!」という感じ。この調子なので、僕の頭はどうにかなりそうでした。
そんな中、僕を学びの楽しみに目覚めさせてくれたのは、アルバイトとインターネットでした。
フードコートで接客をしたり、スーパーのパック寿司を作るアルバイトを経験して、「この仕事はそこそこ楽しいし、別に大学に入らなくてもこれで生きていけるな」という自信を得ました。
「でも、せっかくならもっと良い仕事も知りたいし、大学に行く機会があるなら経験と思って行ってみるか」「今まで勉強に手を抜いてきたけど、ちゃんとやればできるってことを証明してやろう」と考え、ネットで情報を集め始めました。
2006-2009年当時、SNSはほとんど発達していなかったので、元祖ソーシャル系サービスである2ちゃんねるで情報収集していました。
特にお世話になったのが、大学受験板と大学生活板です。今はすっかり定着した用語「リア充」や「ぼっち」という言葉の発祥の地ですね。
当時の「東京工業大学に合格するためのスレッド」の賑わいがなかったら、僕は東工大に進学していなかったでしょう(笑) 各種スレを比較して、面白そうな大学だと思ったのは理工系大学が多かったですね。
特に東工大スレが輝いていたのは、tokyotech.netというスレのまとめwikiが充実していたこと(今は消えてしまいました)。wikiには、おすすめの参考書のページ、模試の成績報告、受験体験談などが用意されていました。wikiを管理者は、(当時)現役の東工大生。のちに大学で入ったサークルで偶然出会うことになったのですが(笑)、その話はさておき。
他にも、 「おすすめの参考書を紹介する」系のスレッドや、「科目名 参考書」で検索すると出て来る参考書紹介サイトをもとに、自分のレベルにあった参考書を探しました。
そして、Amazonで古くなった参考書、1円のものとかを含めて、一気に買いました。合計1万円くらいでしょうか。これに加えて、後から買い足した参考書もたかが数万円です。
大学受験をすると決めた冬から、参考書を使って自主的に勉強することで、大学入試模試の成績はグングン伸びました。
通っていた高校は、地元の国公立大学である群馬大学に入ることを目指していたので、学校で力を入れる勉強はセンター試験に重点を置いたものになります。いわゆる難関大学と呼ばれる大学以外だと、記述式の二次試験よりもマークシート式のセンター試験の方が入試の配点が高いのです。
当時、東工大の入試の配点においてセンター試験が占める割合は、270/970=27.8%。記述式の方が配点が高いんですよね。高校の教育方針と進学する大学のミスマッチに気づいた僕は、授業中にできるだけ自習するようにしました。幸いなことに、それを許可してくださる先生もいましたね。
大学受験の話が長くなってしまいましたが、要は、僕は大学受験に向けた自主勉強をきっかけに、学ぶことの楽しさを知ったんですよね。
受験する大学、学ぶテキスト、学ぶ順番、学ぶペース、学ぶ時間は自分で好き勝手に決められる。やればやるだけ知識が身について、日常の出来事がより高い解像度で見えてくるんです。
学校がつまらないなら、自分たちで楽しく学ぶ場所を作れば良い
ここまで、小学校から高校までの学びについての経験を振り返ってきました。
総じて言えるのは、「教えられる」学びが僕には合わなかったということです。
公共教育全体を否定するつもりはありません。できるだけたくさんの人が、最低限であっても学びを体験する。それは良いことだと思います。自我が芽生える、思春期あたりまでは。
しかし、「良い大学や良い高校に進学して社会的に評価される」ために学ぶ人を評価する一部公立学校の教育はどうかと思います。名誉のために勉強する人を増やして、どうしたいのでしょうか?
哲学者プラトンは、著書「国家」において、いわゆる魂の三分説を唱えます。魂とは、人間の心、精神のようなものです。彼は、人間の魂は、理性的な部分、気概的な部分、欲望的な部分からなっていると言います。ざっくり言うと、理性とは論理性を愛すること、気概とは名誉や勝利を愛すること、欲望とは財産や物質を愛することです。
公共教育が、公社会に貢献する人を育てることを目的とするならば、名誉欲、気概的な部分が魂を支配するようにしてはならないはずです。そうした人が社会に増えれば、出世することを目的とした競争が起こり、良い仕事ができなくなるので。
このように公共教育に不満があるとはいえ、僕はそれを直接的に変える気持ちはあまりありません。
主体的に選択できる制度を設計して普及させるのも、そのために必要な教員を補充するのも、大変そうです。
僕は楽しいことをしながら生きていたいです。そして、僕の人生を楽しくしてくれたのは、学び、それも自発的な学びでした。
その学びをサポートしてくれたのが、知育のおもちゃであり、公文式であり、アルバイトとインターネットでした。
できるなら、こういう自主的に学ぶ楽しさを、小学生くらいの頃にちゃんと教えてくれる大人に出会いたかった……(笑)
そして今、僕自身が、働きながらも、学び続ける場所が欲しい。
そういう思いから、僕は「文脈ゼミ」という活動を続けていきます。
木村すらいむ(@kimu3_slime)でした。ではでは。