どうも、木村(@kimu3_slime)です。
僕の人生にはいろいろやってみたいことの候補がありますが、その中で僕は「学び」に関する活動にフォーカスしていきたいと思っています。
ところで、この「学び」という言葉はとても幅広い。今回は、この学びという言葉についての考えを整理していきます。
「学び=学校で行われるもの」ではない
まず言いたいことは、学校の勉強のみが学びではないということです。
国語、算数、理科、社会、学校には各科目の教科書があり、その内容を教える先生がいます。
学びということを、この学校での教育活動に限定して考えて欲しくないものです。
「学校の勉強が何の役に立つかわからない」という人がいますが、それは「学校の勉強」と「自分の人生における学び」を結びつけられていないのでしょう。
例えば、家で家事を手伝っていて学ぶこともあるでしょう。友達と遊んだり、近所の人と出会って学ぶこともあるでしょう。ゲームをしたり、アルバイトをする中で学ぶこともあるでしょう。宿題をサボることで学ぶこともあるでしょう。
人生の一瞬一瞬に、学びの機会が用意されています。その機会を逃せば、昨日の自分と明日の自分は全く変わらないでしょう。自立できない状態の人は、一生自立できないままになるでしょう。学びは、人生に変化をもたらすものです。
学びは、より良い人生をつくるために
学びは、それがなければ死んでしまうものではありません。衣服、食事、住居のようになくてはならないものではありません。ある種の嗜好品であると思っています。家庭や国がお金を払ってくれて、良い教育を受けられるのは、良い贅沢です。
僕は、人間はただ最低限度に生きるためだけに生きているのでは、我慢ができない生きものだと思っています。
フランスの画家ポール・ゴーギャンは、「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」という作品を残しています。やなせたかしさんが作詞したアンパンマンの歌「何のために生まれて 何をして生きるのか わからないまま終わる そんなのは嫌だ」にも似ていますね。
どうしても、世界がどうなっているのか知りたいという気持ちは起こる。自分がより良い生活を送ることを望む。もし周囲につらい思いをしている人がいたら、何かできることはないか考える。
学びは、より良い人生を望む人の手段の一つであり、自らの望みを叶えようと考えることだと思います。
木村すらいむ(@kimu3_slime)でした。ではでは。