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僕らは『「対話」のない社会』を生きている

どうも、木村(@kimu3_slime)です。

今回は、哲学者・中島義道さんの著書「「対話」のない社会―思いやりと優しさが圧殺するもの」を紹介します。

沈黙する学生、アアセヨと言う標語など対話のない日本の社会の生きづらさに真っ向から挑み、対話を邪魔しようとする「思いやり」「優しさ」を描き出す、刺激の強い本です。

 

「対話」のない社会―思いやりと優しさが圧殺するもの (PHP新書)
中島 義道
PHP研究所
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中島さんの描く「対話」の不足

僕は「不幸論」で中島さんのことを知ったのですが、書いてある内容よりも、中島さんの人格が滲み出ている文章が好きなんですよね。言葉は無力だと常々感じながらも、言葉の力を信じている。愚直です。

「対立を避けることは<対話>を避けること」という説の一部分を引用してみます。

具体的な例を出してみよう。あるときわが大学の人文社会科学系列会議の席上で、私は「Yさんは委員になったのに、遅刻ばかりでしかもまったく働かず無責任ですよ」と本人に向かって言ったところ、万座が一瞬シーンとした。Y氏はなんの弁解もしない。会議の終わりにS氏が次のような発言をした。

本日は大変不愉快な思いをしました。個人攻撃がなされたのです。本人にソッと言うのならまだしも、みんなの面前で攻撃したのです。各人の落ち度を容認し合って、和気あいあいとしていた雰囲気がぶち壊され、たいへん不愉快でした。

私ははっきり言って驚いた。大学の会議は慰安会ではないのだ。真剣な討議の場なのである。私は自分の目撃したこと、信じた子とを言ったまでのことである。それが不当なら堂々と反論すればよいではないか。内容にはいっさい触れず、私の「個人攻撃」が許せないとは何事か。

──不愉快とは私のことでしょう。私の言ったことに反対なら、なぜただちに本人がそう反論しないのですか。

──反論できない人もいるのです!

S氏は吐き捨てるように言った。と、近くのM氏も「そうだよなあ。ぼくもよく遅刻してみんなに迷惑かけたもんなあ」と事を穏便に納めようとする。アホらしくて話にもならない。私はS氏に向かって「あなたが不愉快だという事だけわかりました」と発言して、その日の会議は終わった。

引用:「対話」のない社会―思いやりと優しさが圧殺するもの

思わず「あるある」と言ってしまうくらい、この光景は思い浮かびます。特に「反論できない人もいるのです!」という部分。トラブルが起こった時に話をせずに、うやむやにしようとする動きが発生し、根本的なコミュニケーションが起こらない。それは残念なことです。

中島さんは、正直に思ったことを話し、話し合おうとする性格にもかかわらず、日本の社会とのギャップを感じるようです。僕は言語的・明示的なコミュニケーションが好きなので、とても共感します。

正直に話すことは、正直に考えること。あまりにま正直に考えると、いわゆる常識に反するようなことを言うようになりますが、それで社会とのギャップが生まれちゃうんですよね。話をすればギャップを埋められますが、そもそも対話が拒絶されてしまう環境では大変。

 

「対話」の原点にギリシャ哲学あり

中島さんは、「対話」を絶対的に価値のあるものとは考えていません

あくまで日本には「言葉を尊重しない」文化があり、ヨーロッパ(特にギリシャ哲学)がもう少し輸入されて良いのではないかと主張します。あとがきから引用。

わが祖国は数々の美点を備えていると私は思う。しかし、どうしても嫌いなところがある。それは、「言葉を尊重しない」文化とでも言えようか。

(中略)

私は──人も知るいいかげんな男であるが──せめて自分の職業になるべく誠実でありたいと願っている。ドイツ語を教えてカントを研究して「血税」を食いつぶしているのである。あらゆるヨーロッパ文化研究者は、ヨーロッパ文化(およびヨーロッパ人)と日本文化(および日本人)とのはなはだしい隔たりを無視してはならないと思う。自分の専門が自分の日常生活と隔絶していることに真剣に悩むべきだと思う。

だが、同僚の中にはこうした態度の者は稀である。ドイツ語を教えながら、ドイツ文学や哲学を研究しながら、日本の現状になんの疑問も覚えない者、彼の地に滞在してもヨーロッパ人の身体にしみ込んだヨーロッパ中心主義に抗議しない者がほとんどである。会議の席では日本的自己保存をきめこみ、けっして「無謀な」発言をしない者。こんな御仁が、ドイツ文学や哲学の「専門家」なのだからあきれはてる。

私はそうなりたくないと願った。ヨーロッパと日本との絶望的なほどの差異をいつも問題にしてゆこうと思った。この問題で、徹底的に苦しみ抜こうと念願した。それが、ドイツ語や西洋哲学等、社会的有用性のない安易な職業についてメシを食っている者のせめてもの「罪滅ぼし」である、と信じているからである。

引用:「対話」のない社会―思いやりと優しさが圧殺するもの

遠い離れた国や、遠い昔の時代に著された古典を読むと、「日本がいかに特殊か」ということに気づかされます。中島さんは、ただ自分の知的好奇心を満たすために研究するのではなく、そこで気づいたことを社会に還元しようとしていて、その姿勢にも共感します。

参考:僕が読んだ・これから読みたい人文社会科学系の古典の本27冊

参考:古典1冊がビジネス書10冊よりもすぐれているのはなぜか? 『本の「使い方」』を読む

見習うべき対話の例としては、プラトンの対話編におけるソクラテスとその弟子の対話、特に「パイドン―魂の不死について」を本の中で引いています。僕は「対話」というテーマに本を読む前から興味があったのですが、「対話」のない社会」を読んで「だったらギリシャ哲学の本を読まなくては」と思いました。

対話の本を探すようになったきっかけは、「嫌われる勇気」です。哲人と青年の対話形式になっているのは、著者の岸見先生がギリシャ哲学を研究していたことから来るものでしょう。対話とギリシャ哲学は縁が深いんですね。

参考:アドラー哲学の入門書「嫌われる勇気」を読んで、好きなことができるようになった

 

「対話」のない社会」は、科学的な論文というよりも、エッセイです。思想書です。対話のない社会の問題点・発生要因を描き出していますが、それがは一側面ですし、解決方法は大まかにしか示されていません。でも、目指すべき方向、理想として「対話」を提示している、僕の好きな本です。「ニコニコ哲学」は川上さんの書いた本だから読みましたが、「「対話」のない社会」も中島さんの本だから読んだという感じ。

参考:「ニコニコ哲学」ニコニコ動画は、川上量生の思想のほんの一部が生み出したにすぎない 

思想・何に価値があるかの話って、好みが合わないと読めないんですよね。「対話」にピンと来る方は、ぜひ読んでみてください。

 

木村すらいむ(@kimu3_slime)でした。ではでは。

 

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