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人はコミュニティの過ちから逃れられない? 「知ってるつもり 無知の科学」を読んで

どうも、木村(@kimu3_slime)です。

知ってるつもり――無知の科学」を読みました。

Amazon版だと表紙が宣伝文句だらけでダサくなっていますが、アメリカの認知科学者が書いた本(原題はThe Knowledge Illusion: Why We Never Think Alone)の翻訳書です。

「思考や言語は個人の脳でなされるもの」…という考え方に疑念を持っていた僕ですが、それに対する返しとなる情報を持っていませんでした。この本は、「思考は他人・コミュニティの力に頼っていること」を伝えてくれる本で、面白かったです。

以降、本を読んでコミュニティと知識・信念について考えたことを書いていきます。

 

人間は知識がないのに因果関係を考えがち

この本では、思考は何のために生まれたかと言えば、行動のためにある、そこから出発します。

そして人間は特に、因果関係の予測が得意です。外は雨だから体が冷えないように傘を差していこう…といったように、行動がどんな結果をもたらすか予測することで、良い選択を選ぶことができます(たいていの動物はこれができません)。

 

しかしながら、得意とはいえ100%正しい推論ができるわけではありません。最近読んだ文章で、本書に似たような指摘をしているものがありました。

なぜ人はワイドショーを見るのでしょうか。

それは、多くの人が新しい情報を得たいと渇望する一方で、Factを理解できないからです。そして、人は理解できないことに対しては著しい不安を覚えます。

人間の脳は基本的に大昔からのシステムでいろいろとバグっているので、事実を事実として受け取れないのです。人間の脳は事実から過度に因果関係や物語を読み解こうとします。そのため、Factだけが提示されたニュースというものは、人は受け入れがたいものなのです。

引用:おじさんは何故NewsPicksを読むのか

そもそも、因果予測の根拠となる事実って、普通確かめないんですよね。いちいち調べてたら行動がおそくてめんどくさいですから。

 

人間は多くのことを知っているつもりで生活している。しかし実はあまり多くのことを知らない。これは本書で「知識の錯覚」と呼ばれるものです。

例えば、洗濯バサミの仕組みって知ってますか? なんとなくわかるような気がする。では、洗濯バサミの仕組みを説明できますか? こう聞かれると、うまくいかないんですよね。この時点になってようやく、自分は洗濯バサミの仕組みを知らなかったことに気づくのです。

つまり、デフォルトである程度知っている気になっているもので、考え始めるまでは知らないことに気づかない

 

それでも人間は普通に生活できていますよね。自分が知らなくても、誰かが知っていればいい。つまり、(認知的)分業によって人間は発達してきたのです。自分が電気掃除機の作り方を知らなくても、誰か専門家が作り方を知っている。

個人がすべてわかりつくすことはできない。分業によって人間は種族として発展してきました。

つまり、人間はコミュニティに頼って考えるしかない生き物と言えます。完全に一人で生きるのでなければ。

 

誰もが信念をコミュニティによって制御されている

知識の分業について、身近なもので言えばインターネットがあります。誰か詳しい人が書いた文章にアクセスすることで、知らないことも少しは知ることができる。(「文脈をつなぐ」も、そこに貢献したいですね)

それこそ情報化社会と言われるくらい、情報は手に入れようと思えば手に入れることができます。ただし、どんな情報を手に入れたいと思うかは人次第です。「一方的に情報を提供すれば賢くなる」方法は、うまくいかないものです(欠如モデルと呼ばれる)。

 

そう、知識だけをコミュニティは分業しているわけではありません。信念や規範、価値観をも共有しているわけです。信念に善悪はつけがたいですし、情報量が増えれば信念が変わるわけではないですし、また合理的に選ばれるものでもありません。

最近、「親がネトウヨになっていてショックを受けた」という話をネット上で見かけます。

参考:【悲報】実家に帰省したら親がネトウヨになってた…元凶の「ビジネス右翼」を生む歴史と構造。そして治療法はあるのか|古谷経衡(文筆家)

記事でも指摘されていますが、必ずしも大規模な右翼団体から影響を受けて右翼的思想を持つわけではありません。ネット上の小さなコミュニティから影響を受けることもあるわけです。

 

誰もが、人が言っていることから逃れられません。コミュニティのみんなが信じていることを間違いと言うのは、難しいし、恐ろしいものです。本の中では、熱心なキリスト教徒の例が上げられていました。

「人と違う考えを持っていてもいいじゃないか」という考えを持つためには、そういう考えを持っている人と接することが必要でしょう。

どちらにせよ、コミュニティは似た信念を持った人が必要で、主義が反する場合は説得するか去るしかなくなります。これが煮詰まっていくと過激化することがあり、いわゆる集団極性化やサイバーカスケードと呼ばれる状態になるでしょう。

 

僕は同種の信念の人が集まっていること、それ自体を悪いことだとは思いません。あまりに信念がバラバラのコミュニティは、集まることによるパフォーマンスを発揮できないでしょう。

また、信念を良いものに保つ、というのも難しいことだと思います。誰もが自分の信念を正しく良いものだと思っていて、わざわざ間違っていることを選ぶ人はいません。

 

小さな専門家になり、コミュニティを横断しよう

知識や生活の面で何らかのコミュニティに頼るわけですが、そうすると自由な信念を持てないかもしれない。あるいは、過激な信念を持った集団になってしまうかもしれない。ではどうすれば良いのか、考えてみました。

結論としては、異なるコミュニティを渡り歩くことです。すごい普通のことですが。

 

例えば「異なる意見を受け入れる」というような方法は現実的ではないと思います。それはできたら良いのですが、できたら苦労しません。誰でも心地良いコミュニティに入り浸りたいものです。受け入れずとも、眺めれば良いと思っています。

とはいえ、異なるコミュニティを渡り歩くことも同じくらいめんどくさいでしょう(僕はめんどくさい)。

 

ここで認知的分業の考え方を思い出します。自分が何らかの専門知識を持てば良いと思うのです。職業とまでいかなくても、人より少し詳しい、小さな専門家になる。

そしてコミュニティの内外に知識を提供していれば、同じような興味の人から知らなかった知識をもらえるかもしれないし、信念の異なるコミュニティとつながりが持てるかもしれない

信念はコミュニティを超えて伝わらないかもしれませんが、知識は伝わる(少なくとも、伝わりやすい)ものです。

そうして知識や情報を外部と交換していれば、コミュニティへの過度な依存や、集団の思想的な過激化は避けやすくなるのではないでしょうか。

 

今回書いた話以外でも、コミュニティの知識・信念という視点が深まったので、おいおい考えていこうと思います。

木村すらいむ(@kimu3_slime)でした。ではでは。

 

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