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人は言葉によって社会的に発達する「ヴィゴツキー入門」を読む

どうも、木村(@kimu3_slime)です。

認知心理学に興味があり、「ヴィゴツキー入門」を読みました。

ヴィゴツキーを僕は知らなかったのですが、ピアジェと対比されることがあり、ピアジェが重点を置かなかった「社会」と認知・精神の関係を扱っているということで、面白そうだと思ったのです。

参考:ピアジェ(Piaget)とヴィゴツキー(Vygotsky)の違いについて調べてみました。  – 旅する応用言語学教育と社会的構成主義

 

面白かったこと:言語が外から内に取り込まれる

ヴィゴツキー(1896-1934)は、ロシア(ソビエト連邦)の心理学者です。特に認知発達を研究し、観念論的心理学(フロイトやゲシュタルト)を批判しつつ、科学的なアプローチによる心理学を築こうとしました。

……と書くと、ピアジェも同じじゃないかという気がします。実際同時代人であり、良い論敵であったようです。人の認知、発達に関して、ピアジェは出身が生物学ということもあり、「自然発生的な概念」を捉えようとしました。これに対してヴィゴツキーは、「生活的概念」として捉えようとします。

ピアジェは、人は成長するにつれて(段階を踏めば)「自然に」量や数の保存の概念を獲得することを調べましたが、ヴィゴツキーはそれを(人による)教育の産物だと考えています。ピアジェは生物としての人間の能力を調べようとしていて、それは科学的で良いと思いますが、「人は人から学ぶ」という側面が抜けている傾向にあると感じていたので、ヴィゴツキーの立場にも理があると感じました。

 

本を読んでいて特に面白かったのが、ヴィゴツキーが「言語」の役割に注目していることです。

パブロフは、動物における条件反射と人間の反応は異なり、人間のそれでは間に言語が入ってくるモデルを考えました。

 

画像引用:ヴィゴツキー入門

ヴィゴツキーも同様に言語に注目します。彼の仮説はこうです。

あらゆる高次の精神機能は、子どもの発達において二回現れる。最初は、集団的活動・社会的活動として、すなわち精神間機能として、二回めには個人的活動として、子どもの思考内部の方法として、すなわち精神内機能として現れる。

(「発達の最近接領域の理論」より)

引用:ヴィゴツキー入門

子どもの言語活動を調べるうちに、次のような結論にたどり着いたわけです。

言語や思考など、高度な精神活動は、最初大人や友達との関わりの中で少しずつできるようになってきます。最初は話し言葉によるコミュニケーションだったものが、だんだんと内面化されて内言(口に出さない言語活動)へと代わり、基本的な思考能力が身についていく、と。

書き言葉は、ヴィゴツキーによれば、(話し言葉と違い)自然に獲得されていくものではありません。言われてみれば、「書く」能力が広く当然とされているのは、近代-学校という前提があってのものです。書き言葉は、音と対話相手を抽象化しなければならず、教育が必要となる。そして書く能力が、やがて自分が話していることを意識して、言語を駆使して考えられる能力につながっていく。

僕たちは学校で勉強をしていくわけですが、言語・抽象的な思考力が人によって身につき方に違いがあること、それがなぜなのか気になっていました。ピアジェの言うほど、それは自然に身につく能力だと思えなかったのです。感覚としては、本を通して文章に慣れていた人は、その後の抽象的な勉強に馴染みやすいという仮説が僕なりにありました。ヴィゴツキーの理論は、本や遊び、人との関わりが発達を促すというもので、面白い観点だと思います。

 

ヴィゴツキーはまた、教育的な示唆もしています。例えば話し言葉-書き言葉は、独立した能力でなく、相互に関連して発達していくものです。教師は、すでにできあがった心理的機能に注目しすぎるのではなく、これからまさに成熟しようとしている機能(発達の最近接領域 Zone of Proximal Development)に力を入れるべきだと。

「子どもが他人の助けを借りて今日できることは、明日一人でできるようになる可能性がある」という考え方は、人に何かを教えるときに非常に役立ちそうです。

 

本への批判

とまあ、「ヴィゴツキー入門」はヴィゴツキーに関する部分では良かったのですが、ちょっと著者の関心と僕の関心が合わないと感じるところがありました。

ヴィゴツキーが教育の文脈で評価されているとか、アメリカや日本の教育は~とか、(ヴィゴツキーに照らし合わせて)日本の教育はこうすべきだ、とか。僕は心理学としてのヴィゴツキーに興味があったのに、著者が教育学的に語っている部分が多いのです。(しかもそれが科学的・学術的態度に見えないのがつらい)

もちろん、ヴィゴツキーは人間の認知発達を、社会・文化・教育との関連でとらえています。しかしもっぱら教育のためにだけ考えたわけではありません(「心理学の危機に対処しようとしていた」と冒頭では問題提起を紹介していた)。人間が「いかにあるか」の話の間に、教育が「いかにあるべきか」の話が入ってくるのは、興味がない身として残念でした。

 

あとがきを読むと、著者は専門がもともと心理学でなく、教育学でした。それならば仕方のないかもしれないですが、タイトルやまえがきに「教育学的観点から」という前置きがほしかったです。

また、ヴィゴツキーを「心理学におけるモーツァルト」と複数回呼んでいますが、理由がわからず、くどいと感じました。偉大な学者を、別の分野(音楽)の偉人で形容してどうするのでしょうか。モーツァルトは確かに素晴らしい音楽家だと思いますが、それを心理学者-あるいは偉人として持ち出すのは、陳腐だと感じました。学者の偉大さを語るのに、「人々からの評判」を持ち出すのは、解説書として他者の評価に依存しすぎだと思います。

仮にも学者に関する本なのですから、人物像とその仕事の評価によって、ヴィゴツキーを持ち上げてほしかったです。「天才」と漠然と言われても何がすごいのかわかりません。

とはいえ、著者はこの本の前に10冊以上ヴィゴツキーの本を翻訳しており、ロシア語の文献が日本語で読める状態になっているということには、感謝するしかありません。

 

ヴィゴツキーへの批判

ヴィゴツキー入門」は、ヴィゴツキーの仕事すべてを紹介しているわけではありません。以下、この本で得られた(限定的な)ヴィゴツキーの考え、自分なりの理解のもとに批判を試みます。

40歳前と比較的若く亡くなってしまったためもあるかもしれませんが、「科学的な心理学を」というわりに、ピアジェやパブロフほど実験的なアプローチが見えず、彼らの批判にとどまっており、建設物が不明瞭だと思います。

本では「環境の働きかけという、複雑な要素が含まれていて、つかみどころがないともいえるような環境の役割を強調する」と書かれていますが、結局「環境・社会・文化」とは何なのでしょうか。それは新たなブラックボックスにすぎないのではないでしょうか。

もちろん、なんでもリビドー、なんでもゲシュタルト……よりはマシですが、人と人の相互作用を科学的に調べる方法を提示できていなかったと僕は考えています。

新しい心理学を作る上では、歴史的方法が必要と述べたそうです。しかし本書に述べる範囲では、「心理学の研究と歴史的・社会的・文化的研究を関連付けるべき」と言っていて、それは大事なポイントで同意しますが、「具体的にどのようになすか」が述べられていません。惜しいポイントだと思います。

 

とはいえ、人間の認知を、普遍的で自然なものへの還元だけでなく、人間間の相互作用によって生じるものと捉えたのは、素晴らしいと思います。人間の研究には、自然的アプローチと社会的アプローチの両方が必要です。「意識」は科学にならないから対象にしない……といった唯物論・行動主義には必ず批判が伴ってしかるべきです。

……というわけで、ヴィゴツキーの系譜、その先を知りたくなりました。詳しくないのですが、バンデューラの社会的学習理論が少し近そうなので、いつか勉強してみます。

木村すらいむ(@kimu3_slime)でした。ではでは。

 

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