わかりあえないことは苦しい。
そんな感じのことを書いた。
どうか、伝わらないコミュニケーションを続けるのは、やめてくれ。ぼくが手伝うから。
自分の家庭環境について客観的な判断ができない子供はどうすればよかったのか。
どうして喧嘩しているんだろう。
どうして落ち着いて話しあうことができないのだろうか。
ぼくがこの世界に見る悲しみは、わかりあえないことだった。
けれど、つらいことを考えて怒っていても、何も変わらない。
何にも変えられないことこそが、つらさを生み出す。
だから、ちょっとずつ変えられそうなことをやっていく。
生きているってくだらないと、あなたは思ったことがあるだろうか。
怨み、つらみしか見えていないと、そう考えがちなものだ。
ぼくは言いたい。
この世界には、ほんのちょっとは、ありがたいと思うことがあるんじゃないかな。
そのありがたいものを守ろうとしてみればいいと思う。
ぼくにとっての、ありがたいもの。
それは、わかりあえることだ。
人と人とが完全にわかりあうことはできない。
それでも、わかりあおうとすることなら、できそうだ。
だから、家族一人ひとりと話すようにしていて、コミュニケーションをとっている。
ぼくはわからないことについてはまるで興味をもてないし、愛せないし、守れない。
逆に、すてきだなと思ったり、守りたいと思ったりする気持ちから、わかろう、お話をしようという行動が出てくる。
身近にいてくれて、わかりあおうとしてくれている人こそ、まず第一にありがたい。