どうも、木村(@kimu3_slime)です。
竹本竜都(@17noobies)さんにご謹呈いただいたゲームの批評書「プレイヤーはどこへ行くのか――デジタルゲームへの批評的接近(略称:プレどこ)」を読みました。
映画やアニメの批評はこれまで多くなされてきたが、ゲームについての批評はまだまだ少ない。そんな流れで生まれてきたのが本書。特に、Undertale、PUBG、艦これ、FGOなど、2010年代のゲームやPCゲームに多く言及されているのが特徴と言えます。
本書は、批評家集団「限界研」11人による論考が集まったもの。
僕個人としては、死にゲー、ツムツム、パチンコ、政治とゲーム(ゲーミフィケーション)、MOD論が面白かったです。
この記事では、一番面白かった論考、藤田直哉『不幸な未来も「ゲーム」が作るのか?』に言及します。
ゲームは絵画や絵画と同様に重要である
悪い事件が起こったときに、ゲームが原因であると報道されることは少なくありません。ゲームは、世界を悪くしたり、あるいは世界を良くすることがあるのでしょうか?
アメリカの事例と、ゲーミフィケーション・美学・プラグマティズムをキーワードに、ゲームと政治の関係性を考えていくのが本論考です。
僕が最もアツいと思ったのは、次の文章。
どちらの指摘も、ゲームが世界認識や欲望の持ち方に影響するのだという理論的な前提を背景にしているのだと推測される。
(中略)
むしろ、絵画や映画などと対等に、真剣に考察されるべき重要性があるものと見做すからこそ、軽く見ず、かつての文化研究や評論で行われていた水準での検討を「平等に」行うべきなのだ。少なくともぼくにとっては、軽視しているから行うことではなく、文化・芸術としての重要度を高く見積もっているからこそ「平等に」行わなければならないと感じている。
引用:プレイヤーはどこへ行くのか――デジタルゲームへの批評的接近 pp.213-214
「ゲームは事件と全く関係がない」とは捉えない。むしろ、絵画や映画は、人や社会に影響を与えている。それと同じように、ゲームも人や社会に大きな影響を与えている文化として、考察されるべきである。
もともと僕は、批評の本に強い興味関心を抱いているわけではありません。でありながら本書を読むに至ったのは、一般メディアで批判されることも未だあるゲームという文化をいかに評価するか、それが知りたかったからです。その議論の手法もそうですが、もっといえば、ゲームを論じることにいかなる熱意を持っているか、それが知りたかった。この文章によって、それが果たされました。
僕は当サイトでいう「ネット文化」も、戯画化することも神格化することもなく、適切な形で評価されるようにしていきたいと思っています。
ゲームは、その娯楽目的ゆえか、あるいは歴史の(相対的な)短さゆえか、文化として論じられるものなのかどうか、疑問視する視点があるのではないかと思います(でなければ、ことさらに論じようとする理由がない)。かつて映画の評論や、サブカルチャーの評論も、今のゲームと同じような状況にあったことでしょう。
僕も、ネット文化はそのような議論の対象になる(である)と思っているため、それを伝える実力を準備したいと考えています。そのためには、ネット文化のみ自分の興味ある範囲で学ぶだけでは足りないとも、本書から気づかされました。個別に作品を論じるだけでは、外側からうまく評価されるとは限らない。
絵画や映像の評論における議論をある程度は学んでいるからこそ、ゲームをそのような流れの上に位置づけることができるのではないかと思います。むやみに関連付ける必要はないかもしれませんが、突き当たる課題に似たものは多く、役立てられるものは多いでしょう。
僕は批評家ではありませんが、本書は批評という手法の価値(新しい文化を大きな流れの上に位置づけること)を感じるきっかけとして参考になりました。
木村すらいむ(@kimu3_slime)でした。ではでは。