(持論です、客観性より論点提示を目的に書いた試論です)
00年代と10年代は別物であるが、混同されやすい
インターネットらしさというものが取り上げられるとき、それはしばしば古いもの、特に00年代のネット文化だけを指して語れられている印象がある。
10年代に入ってからスマホの普及、ソーシャルメディアの一般化とともに、ネットのユーザー層は広がり、1枚岩で語れなくなった。しかし強いて言えば、00年代的思想と10年代的思想というものがあって、それらが対立することが多い。
年代でくくるのは便宜上の話で、この10年のネットユーザーの思想傾向の変化を、とらえたい。
某暗黒のお方やタラコの方と対比して、栗田さんという人間について考えることがある。
前者が匿名的ネットの時代の人であり、後者は実名的ネット時代の人という印象。
僕は10年代に入り、ネットはSNS・記名・コミュニケーションが前提となったと思っていて、そこが栗田さんのスタンスから伺い知れる。— 木村すらいむ (@kimu3_slime) May 22, 2018
匿名から記名・実名へ
まず表面上の違いとしてわかりやすいのが、匿名と記名の違いだ。
00年代のコミュニケーションの場と言えば、2ちゃんねる(5ちゃんねる)・ふたばと言った匿名掲示板だ。
「名無し」「としあき」と言った共通の名前を使い、名前ではなくその内容によってコミュニケーションする。あえて記名する人はコテハン(固定ハンドル)と呼ばれ、あまり存在感を出しすぎると糞コテと批判される。
ニコニコ動画もこの流れを汲んでいて、コメントは基本的に匿名でなされる。はてなのアノニマスダイアリー(増田)や、Yahoo!知恵袋も匿名系のサービスだ。
10年代のコミュニケーションの場と言えば、TwitterやFacebook、LINEやYouTubeだ。
すべてのユーザーが独自の名前を持ち、個人対個人としてコミュニケーションする。
特にFacebookでは、匿名アカウントが規約違反とされるため、実名ユーザーが多い。
匿名サービスに慣れ親しんできたユーザーは、実名サービスを恐れる傾向にある。身バレを嫌うのだ。ネット上での活動は、リアル(物理的社会)と切り離されているべき、仕事や生活と関係させたくないと考えている。
そのため、Twitterのような記名サービスで、ハンドルネームを名乗って利用することが多い。中には、記名サービスすら「馴れ合い」として嫌悪する、より匿名性の強い掲示板のみを利用するユーザーもいる。
一方で、記名サービスが当たり前となったユーザーから見ると、匿名に対してあまり良い印象はないだろう。匿名的なユーザーの発言は攻撃的な傾向にあり、炎上に加担するのが目立つから。また、そもそも匿名サービスを通ってきていないと、2ちゃんねるなど匿名掲示板に対して「悪質」「危険」という印象を持っていることがある。
匿名と記名は、必ずしも対立するものではない。両方に通じるユーザーも多いだろう。
しかし、どちらか一方にしか通じないユーザーは、もう一方を嫌う傾向にある。嫌いだから、どちらかしか使わないという選択をしている、とも言える。
話をわかりやすくするために、匿名・(SNSに代表されるような)記名と対比させた。
しかし現実にはその中間項、半匿名(ハンドルネーム)の文化のサービスもある。個人サイト、ブログやWikiでは、実名ではなくハンドルネームを名乗るのが主流。後期になるにつれ芸能人など実名を出す人も増え、10年代的になってきた。
半匿名(実名・完全匿名の拒否としてのハンドルネーム)の流れは確かに00年代からあるもので、10年代的になるにつれ記名の文化(実名との共存)として一般化してきた。
村社会から都市社会へ、ローカルルールからより実社会ルールへ
00年代のインターネットは、無知なユーザーに厳しく、その代わりに詳しいユーザーに自由があった。
例えば2ちゃんねるには、「半年ROMれ」「空気嫁」という教えが残されている。何も知らないユーザーには発言権がない。しかしこれは完全な排除ではなく、コミュニティのルールやふいんき(なぜか変換できない)を学び取ってほしい、という考え方。
当時の2ちゃんねるの管理人・ひろゆきは「うそはうそであると見抜ける人でないと(掲示板を使うのは)難しい」と言った。「うそ」があるのが当たり前であり、「うそを見抜けるようにならないと、掲示板は使えない」ということだ。それがこの年代のネットリテラシーなのだ。
匿名が前提となっているので、誰がどんな悪事をするかわからない。初心者をだます釣りや喧嘩を仕掛ける煽りが当たり前。ブラクラもウイルスも自己責任。アングラな世界だった。
代わりに、実社会のルールを守れという声は少なく、自由に発言したり、(商業コンテンツ含む)さまざまなファイルを共有しダウンロードできるようになっていた。
「違法ダウンロード」という言葉が生まれた10年代の基準からすると信じられないかもしれないが、「割れ」というスラングが生まれる程度には映像・ソフトの不適切なダウンロードは一般的なものだった。
00年代には、ネットにはネットのモラルがあり、現実のそれとは別物だった。これは村社会的と言えるだろう。
一方で、10年代は都市社会的だ。村社会でのルールは無視され、(現実の)社会通念にのっとった行動を求められる。違法ダウンロードを公言すれば、炎上などによって社会的制裁が行われる。匿名での過激な発言は、ときに殺害予告や名誉棄損として訴えられたり、逮捕されたりする。
10年代には「フェイクニュース」という言葉も生まれ、ネットでうそをつくのは良くないことだ(うそをつく方が悪い)、とされつつある。典型的なのは、虚構新聞や国際信州学院大学に対する批判・炎上だ。「うそであるとわかるように書いてくれ、そうでなければ悪質だ」という反応が、SNSサイドからは寄せられる。
総じて、00年代はローカルルールが力を持っていて、10年代はよりグローバルなルール(実社会のルール)が力を持っている。後者ももちろんある種のローカルルールでしかないのだが。
前者は後者の登場に「息苦しさ」を感じ、後者は前者に「人としての不誠実さ・非常識さ」を感じるだろう。
10年代になって、ネットがアングラである必要はそれほどなくなってきた。
アングラと共に培われてきた創作文化が、より一般に楽しまれるように。
一部の企業(例えば艦これやけもフレ)は二次創作を許容、作り手を巻き込みブームが起こった。
素材は使いやすく、オープンに公開できる流れが進んでいる。— 木村すらいむ (@kimu3_slime) April 9, 2018
今、レスリングがなぜ釣りにならないのか考えている。淫夢と比べると圧倒的に美しいし、エア本さんに比べると権利的なまずさが少ない。レスリングは釣りの王道として認識されてしまった。だから、もはや釣りとして成立しなくなったか。そもそも、(2010年代から)釣り自体がニコ動から減ったし。
— 木村すらいむ (@kimu3_slime) December 19, 2016
レスバトルから対話へ
00年代、匿名的インターネットでは、レスバトルのうまい人が評価された。典型的なのがひろゆきであり、切込隊長(山本一郎)さんだろう(見事にハンドルネーム)。攻撃的な言動も、プロレスとして良しとされた。
しかし10年代に入り、評価基準が変わってきたように思う。ビジネスで結果を出し、(攻撃的でなく)信念を発信できる人が評価される。ホリエモンやサイバーの藤田さん、イケダハヤトがそうだろう。
特に10年代後半では、信念を貫くだけでなく、対話・コミュニケーションができる人が評価される傾向にある(これは僕がそう考えているだけかもしれないが)。典型的なのは、ニコニコ新運営の栗田さんだ。
00年代のサービスの住民は何事も「批判・否定・つっこみ」から始まるし、10年代のサービスの住民は何事も「共感・肯定」から始まる。どちらが良い悪いでなく、そういう傾向にある。
ニコニコ旧運営の川上さん(かわんご)は、00年代と10年代の両者の差に、悩み苦しんでいるように見える。少し長いが、今回の話のまとめともなる内容なので、ブログから引用しよう。
日本のネットで罵詈雑言が多いのは当然だ。
社会から疎外され、発言することを許されなかったひとたちが、やっと自分の考えを聞いて貰える場所を手に入れたのだ。おとぎ話なら、口々に感謝の言葉でも述べるところだろうが、実際に飛び出したのは、いままでの人生で積もり積もった呪詛の言葉だったというだけの話だ。それぐらい当然のことだろう。
ぼくたちは、いま彼らの呪詛の言葉を嫌悪して排除しようとしている。それは本当に正しいのか。自分たちが排除して見捨てたひとたちの言葉なのだ。
ぼくはリアルとネットは地続きとかいっているやつのことが本当に頭にきてしょうがない。リアルで居場所をなくしてネットに居場所をつくった人間に対して、ネットでもリアルの人間関係を持ち込もうというのか?
リアルはリアル、ネットはネットでいいじゃないか。なんなら、ネットとリアルは地続き、とかいうやつらの島をつくってもらって、そこはそこで勝手にやってもらってもいい。ただ、ネット全体にリアルの価値観を持ち込む必要がどこにある?
引用:半匿名でぼくが決めているルール – 続・はてなポイント3万を使い切るまで死なない日記
これまで紹介してきた典型的な00年代の思想だが、これがあるからこそ「かわんご」として半匿名(記名)で発信しているのだろう。
しかしカドカワの代表である川上会長は、10年代の思想のもとに存在している。その思想は、かわんごではなく川上量生として、別の公式ブログで発信された。
僕はかわんごの思想には共感する。00年代の思想の良さ・自由な場所としてのインターネットを、なんとかして残したい、と思う。
しかし彼が先ほどの文章から感じられるのは、10年代の思想の無視だ。リアル・ビジネス・社会生活の場となったのが、10年代のネットだ。原則として、好き勝手に罵詈雑言をいう人は歓迎されず、協力とコミュニケーションによって成り立っている。そこに00年代の思想だけを残すのは、あまりに理想主義だ。
(実際、ニコニコ旧運営が一方向的体質となったのは、川上さんの00年代ネット主義によるものだと思っている。思想家として面白いが、「10年代の」サービス運営者として適さない。)
僕は、これからのネットも、10年代ネットの論理で動いていくと考える。00年代ネットは伝統的文化として残っているが、時代錯誤と改められる部分は多いだろう。このブログ・サイトの運営も、記名でコミュニケーションをする形、10年代のネットに適合した形で運営したいと思う。
しかし同時に、僕は00年代のネットカルチャーで育ってきた人間でもある。00年代のネットの面白さがあったからこそ、ネットは社会にここまで評価されてきたのだ。「00年代ネットこそが善だ」と言っても、10年代ネット・社会は変化しない。
僕はこのサイトを通じて、00年代的な(匿名、ローカルルールが強い)ネットの面白さを、10年代的な思想の人にも伝えたい。バーチャルYouTuberのブームがそうだが、00年代の面白さはリメイクされ、10年代のカルチャーの中にも今もなお含まれているのだ。