どうも、木村(@kimu3_slime)です。
オウム真理教(特に麻原彰晃裁判)を描いたノンフィクション小説『A3』を読みました。ノンフィクションというよりは、ドキュメンタリー映画のよう。noteで無料公開されていて、その描写に引き込まれ一気に読んでしまいました。
僕の転機はオウムだ。地下鉄サリン事件をきっかけに映画を撮り、本を書き、そして今がある。でも興味の焦点はオウムそのものではなく、オウムによって激しく変化した日本社会だ。そしてその変化は今も続いている。処刑は行われたけれど、まだ遅すぎない。まだ間に合う。その思いで公開します。
— 森達也(映画監督・作家) (@MoriTatsuyaInfo) January 24, 2019
被告に対する「精神鑑定」の拒み具合に衝撃
僕は1992年生まれで、地下鉄サリン事件(1995年)当時は3歳でした。
地下鉄サリン事件の内容はほぼ記憶していないのですが、何か大規模な殺人事件が起きて嫌なニュースだったな、という印象です。それだけに、大人になってみると、オウム真理教のことについて何も知らないことに気づくのです。なぜあんな事件が起こったのだろう、と。
地下鉄サリン事件をモチーフとしたアニメ『輪るピングドラム』は見ましたが、主題はオウムを描くことではありませんでした。
『A3』は、地下鉄サリン事件をめぐる松本被告の裁判を、著者の森さんが聴講するところからはじまります。見ていると、驚くことが判明するのです。車椅子に乗っていて、人と全く会話できず、下半身を頻繁に着替えていることから、おそらく失禁していると思われる。つまり、何らかの精神疾患にかかっていると思われるわけですね。こうした状況では、何が起こったかは裁判で明らかになるはずがありません。
そのような状況にもかかわらず、検察・裁判所側は(当初)精神鑑定を行わず、(動物的な)リアクションが起こることを「会話ができる」と認定し裁判を進めようとした。弁護側は鑑定を申請するが、却下される。やがて2006年に精神鑑定が行わたが、「問題なし」とされる(以下の記事)。
参考:オウム死刑執行 麻原彰晃死刑囚、自分で歩いて運動場に 関係者「執行に問題ない」 – イザ
しかしその結果は、麻原氏の法廷での様子からしておかしいわけですよね。森さんだけでなく、聴講する他の取材者もそう感じていた。でありながら、行われた精神鑑定の詳細は明かされず、(そのことから)御用学者的な精神科医による結果と言えるでしょう。
事件当時の麻原氏の精神状態は正常なもので、そこにはもちろん責任は負います。何も、精神的に異常があるから減刑すべきという話ではない。裁判を受けるにあたり必要な能力(訴訟能力)があるかどうかは、確かめる必要がありますよね。にもかかわらず、非常に疑わしい判断しかなされなかった。
僕はこのことに強い衝撃を受けました。『逆転裁判』が描くように、裁判とは真実を明らかにする場だと思っていました。たとえ検察側が立件したとき被告を有罪にする傾向はあったにしても(冤罪を生みそうですが)、せめて裁判所は止めてくれるだろう、と。公平な判断に向かうため、(まともな)精神鑑定を行うだろう、と。被告にも人権はあるし、裁判は手続きを踏まえた上でなされているものだと当然思っていました。だって、近代司法・近代国家とはそういうものだと教わったし……。
2018年に東京医大が受験で点数操作をしていた事件を知ったとき、旧態依然とした組織的行為がなお現実として残っているのだなと感じました。『A3』も同様の衝撃で、もはや僕は『近代』以前の世界に生きているのかもしれない、とさえ思うようになりました。司法を過信していたのかもしれません(でも、そこが信じられなくなったら、恐ろしくてしょうがないけど…)。
参考:東京医大の点数操作「もはや女性差別以外の何物でもない」と指摘。内部調査委が会見 – HUFFPOST
とはいえ、行政や司法は全部が信用できないわけではありません。しかし、(マス)メディアで報道されることを、100%飲み込んで良いわけでは全くない。それを『A3』のレポートから実例を持って感じました。
ただし、『A3』も鵜呑みにできない部分は多いです。「社会はセキュリティ化した」といった、眼の前のケースを社会や国民性に結びつける主張は、言いたいことはわかりますが、根拠不足なものが多いです。論がノンフィクションではなく客観的ではないものになってしまう。根拠にもとづかない思考は、たとえその意図がなかったとしても、性質として陰謀論と似たものになってしまいます。
とはいえ、国や時代(歴史)を超えてスイスイと結びつける思考(例えばアイヒマン)は面白いです。あくまでドキュメンタリーだと思って読む(分析そのものに強い客観性があるわけではないと踏まえる)のが良いのでしょう。
「異常性」を強調するメディアのレトリック
『A3』の面白いところ、もとい森さんの切り口は、「オウム真理教」をめぐるメディアの語り口に注目すること。
テレビを筆頭とする当時のマスメディアが、オウムを語る際に使ったレトリックは、結局のところ以下の二つに収斂する。
①狂暴凶悪な殺人集団
②麻原に洗脳されて正常な感情や判断能力を失ったロボットのような不気味な集団この二つのレトリックに共通することは、オウム信者が普通ではない(自分たちとは違う存在である)ことを、視聴者や読者に対して強く担保してくれるということだ。
それはこの社会の願望である。なぜなら、もしも彼らが普通であることを認めるならば、あれほどに凶悪な事件を起こした彼ら「加害側」と自分たち「被害側」との境界線が不明瞭になる。それは困る。あれほどに凶悪な事件を起こした彼らは、邪悪で狂暴な存在であるはずだ。いや邪悪で狂暴であるべきだ。
「オウムは危険だ、教祖は信者をマインドコントロールした」という一般的な説に疑いをかけるのが『A3』です。そんなに単純な結論ではないはずにもかかわらず、メディアは単純化をする。
麻原被告の裁判で、精神鑑定が適切には行われなかったのも、おそらくマスメディア、ひいてはその先にある世間からの圧力の強さによるものだったでしょう。大衆が「殺せ」と言って、それで行政・司法が手続きを踏まずに処刑していたら、それは魔女裁判ではないか……という話ですが。しかしそうせざるを得ないくらい、当時のメディア・世間の圧力は強かったのでしょう。
当時に比べ、報道とジャーナリズムのあり方は変わってきたと思います。インターネットの登場です。情報発信手段が寡占されなければ、『A3』を無料公開で広めるようなこともできるようになりました。
とはいえ、マスメディアだけがメディアでなくなったとしても、まとめサイトやSNSが登場し『極悪人』認定するといった傾向は変わらないでしょう。警察や裁判所まで至らず、SNSの情報のみによって「私刑」が行われるケースも出てきています。
参考:【フェイクニュースを超えて】 SNSのうわさのせいで焼き殺され、メキシコの小さな町で – BBC NEWS JAPAN
メディアは意図するにせよしないにせよ、独特の「文法」で人々に影響を与えていきます。
どんなに技術が発達しても、メディアの影響から逃れられるわけではありません。だから、メディアと三権、メディアとメディアが相互に監視し合うジャーナリズムもまた、ネットの時代でも必要なのだと再確認しました。僕自身、メディアを運営する身として。
メディア・ネットにおいては、好き勝手なことを必ずしも言って良いわけではありません。例えば最近では、ヘイトスピーチと呼ばれる言葉が生まれ、発言も慎重になりがちな世の中です。
>たとえば差別的な発言を無責任に巻散らかしてもいいとは、私はやはり思えない。
もちろんもちろん。そんな前提を立ててしまっては、ヘイトスピーチも否定することができなくなる。
言論は自由ではあっても、批判や反対意見は常にセットです。だから発言で明らかになった彼らの思想信条が、NHKの方向性を決めるポジションとしてふさわしくないと批判されることは当たり前。僕が気になるのは、「そのポジションに就いたからにはその発言をすべきではない」的な批判です。ならば(前回の田母神論文騒動の件で書いたように)内部で発酵しながら増殖する。誰もその是非を論じられなくなる。
引用:web掲示板談話 斎藤美奈子・森達也 第二十三回 – 株式会社現代書館
もちろん差別的な発言は問題です。しかし「差別的な発言」を取り締まる空気が強まれば、物事が自由に言いにくい空気もまた生まれることでしょう。
僕は「恒心教」と呼ばれるネット文化に興味を持っています。オウム真理教になぞらえて名付けられた冗談宗教ですが、メディアで表立って語られることはありません。
参考:ネットに強い弁護士・唐澤貴洋は、なぜ100万回殺害予告されたのか? ハセカラ騒動を解説
「そのネット上のコンテンツは文化ではなく、本質が差別だ」と言ってしまい、それに多くの人が同調すれば、オウム真理教のケース同様、実態を語ることすら難しくなっていってしまうでしょう。それは望ましくない結末です。
最近では、唐澤弁護士がテレビなどに露出する機会は増えましたが、恒心教に触れられることはほぼないです。このようなタブー視、あるいはそれを取り巻く社会状況については、僕自身引き続き考えていきたいと思います。
木村すらいむ(@kimu3_slime)でした。ではでは。
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