どうも、木村(@kimu3_slime)です。
マクルーハン「メディア論―人間の拡張の諸相」を読みました。
読もうと思った理由は、方向性としては二つあります。
これまで読んできた古典では近代(の前半)がわかったので、「資本論」と合わせ、近代の後半から現代にかけて理解したかったから。
もう一つは、インターネットが生み出す文化を研究したいと思っていて、それにあたりメディアの研究は避けて通れないものだから、ですね。
最初は、編集者の菅付雅信さんが書いた「はじめての編集」で、マクルーハンを取り上げていたことから、あ、有名な人・本なのだな、と知ったかと思います。
さて読んでみると、難しいし読みにくい(古典あるある)。一文一文が何を言っているかはわかります。しかし、全体として何を明確に言いたいのかがはっきりとしないんですよね。レヴィ=ストロース「野生の思考」のように、たくさんの例とメタファーが使われています。人によって理解の仕方・面白かったポイントがまったく違いそうな本です。
「メディアの内容を調べても意味がない」、「電気のメディアは個人と公衆の意識をつなげる」という話が面白かったので、そこを紹介していきます。
メディアの「内容」に意味はない
マーシャル・マクルーハンは、1911年カナダに生まれました。
もともとは英文学(イギリス文学)の古典を研究をしていた人です。
例えば、活版印刷文化が生まれて間もない頃に、その影響を十分には受けなかった作家の文体を研究していました。
それがあって、1962年の「グーテンベルクの銀河系」や1964年の「メディア論」といったメディアが人に及ぼす影響を論じるようになったのでしょう。
さてメディアとは何でしょうか。マクルーハンは、人間の身体・中枢神経組織の拡張であると述べています。
これはメディアに関する一般的な定義である、「コミュニケーションの中だち」とはちょっと違うように見えますね。どういうことでしょうか。
例えば、車は足の拡張だ。望遠鏡は目の拡張だ。人間の持っている力をより強く素早くするものがメディアだというわけです。
つまりマクルーハンのメディア論は、技術論・文明論でもあります。アルファベット、印刷文字、機械、電気の出現……と本書のテーマは数千年単位に渡るのです。
さて彼が本書の中で繰り返し述べるのが、メディアの「内容」に意味はない、ということです。
本に何が書かれているか、新聞で何がニュースになったか、テレビにどんな番組があったか、ネットでどんな話題が流れていたか。
みんなそれに関心を持つけれども、それはメディアにおいて大事なことではない。その内容によらずに、メディアは人間の感覚を暴力的なまでに変えてしまう。
例としてあげられていたもので、アルファベット(簡単で使い易い表音文字)がギリシャに持ち込まれたときの話が面白かったです。
文字は(怪竜の)歯の拡張だというのです。アルファベットは、表意文字と違い、見た目と音、視覚と聴覚を切り離しているので、覚えるのが容易ですよね。これと紙があれば、さまざまな技術、そして権力を奪うことができるようになるわけです。この攻撃性と正確さが、歯のようだと。
二〇〇〇年前の古代ローマの属領ガリアでそうであったように、こんにちアフリカでアルファベット文字を身につけて一世代もすれば、少なくとも、まず部族の網から個人を解き放つに十分である。この事実は、アルファベットで綴られたことばの「内容」に関係がない。
引用:メディア論 p.85
マクルーハンは、社会の機械化が生まれたのは、グーテンベルクの印刷技術によるもので、さらにその先駆けはアルファベットにあると考えています。
まずアルファベットは、話し言葉に含まれる身振り手振りや聴覚から、視覚だけを取り出した。そして、印刷機はさらに、「繰り返すこと」ができることを人々に伝えました。
印刷のもつ最高の性格は気づかれていないであろう。(中略)その性格が、正確かつ無限に反復可能な視覚的記述である、ということである。少なくとも、印刷面が存続する限りにおいて。反復可能性というのは、とりわけグーテンベルクの技術以来、われわれの世界を支配してきた機械の原理の核心である。印刷および活字の伝えるメッセージは、第一に、その反復可能性というメッセージである。活字印刷とともに、その原理が一つの統合的行動を分節し細分するという家庭によってどんな手仕事も機械化していく手段をもたらした。
引用:メディア論 p.162
印刷は、その内容によらず、反復可能性というメッセージを伝える。このことはあらゆるメディアに言えて、それは「メディアはメッセージである」とまとめられています。
本書は最初に「メディアはメッセージである」と始まってなんのこっちゃ?となるのですが、具体例を知っていけば納得できますね。メディアの内容にメッセージがあるのではなく、メディアそのものにメッセージ、人の感覚や精神構造を変えるものがある、ということです。
言われてみれば当たり前な気がしてきますが、僕はこの本に言われて初めて意識しました。確かにその通りなんですよね。
内容が問題ではなく環境がもたらすものに注目するというのは、構造主義的な考え方だとも思います。
参考:入門書「寝ながら学べる構造主義」を読む前に、僕と構造主義の出会いの話をする
電気メディアの時代は、世界がひとつの村になる
メディア論で登場するメディアを大きく分類すると、文字、活字、機械、電気の4種類です。
このうち電気は最も現代的で、かつ2017年インターネットの話に通用する指摘があり面白かったですね。
電気のメディアというのは馴染みのない言葉でしょうが、電信、電話、ラジオ、テレビなどを指しています。当時は存在していませんでしたが、インターネットも電気のメディアですね。
電気メディアの特徴は、そのスピードです。人と人の間が全世界的につながるのは、電気がものすごく速いからです。これは馬車、車などの比ではありませんよね。
こんにち、われわれが全体としての世界に反応せざるをえなくなっているのは、上に述べたような相互作用の場が電気メディアにそなわっているためだ。しかしながら、個人の意識と公衆の意識がともに一つの統合的な全体性をつくりあげているのは、とりわけ電気がもつ即時的関与のスピードのせいである。電気メディアは、事件が相互に作用し合い、われわれがそこに関与せざるをえないような全体的な場を、即座に、しかも常時つくりだす。それゆえに、われわれは「情報と伝達の時代」に生きているというほかない。
引用:メディア論 p.254
50年前の文章ですが、「現代のインターネットのことかな?」と思うくらい汎用性のある指摘です。驚きました。
個人が社会と関わりあわずにはいられなくなったのは、何もインターネットの時代に限らないことで、テレビ、いや電信の時代から起こっていたものだと。それが加速したにすぎないわけですね。
電信とともに、チャールズ・ディケンズの、そしてフローレンス・ナイチンゲールの、またハリエット・ビーチャー・ストウの一貫した統合性と全体性が出現した。電気は弱い者、悩める者に強力な声を与え、研修便覧に縛られているような精神から生まれれる官僚的専門主義や業務規定を一掃する。「人間的興味」の次元とは、即時的情報によって他の人びとの経験に直接に参加する局面のことに他ならない。人びとは同情にしろ怒りにしろ、その反応においても即時的にならざるをえない。彼らは中枢神経組織の拡張を全人類と共有しなければならないのである。
引用:メディア論 pp.259-260
「即時的情報によって他の人びとの経験に直接に参加する」、「人びとは同情にしろ怒りにしろ、その反応においても即時的にならざるをえない」とか「Twitterかな?」って感じですもん。
電気の素早さが、官僚的な専門主義・中央集権による情報伝達を上回るから、個人がより際立った存在になる。
「電気は弱き者に力を与える」、これもインターネット論でありそうな指摘ですが、根本的に電気メディアが持っている性質だったと知り驚きました。
このように世界中の人間が瞬時につながることを、マクルーハンは「世界がひとつの村になる」と表現しています。もはやこの世界は広大な未知の世界ではなく、村と思えるくらいに小さくつながっているわけですね。これもよく現代を表していると思います。
マクルーハンのメディア論は、「メディアは人間の身体・感覚の拡張である」という原理にもとづいています。
これはドーキンスの「人間は遺伝子の生存機械である」を思い出す良いキーフレーズですね。こういうドグマがあると、研究の方向性が開ける気がします。マクルーハン的メディア研究をすることはできるでしょう。
しかし、ドーキンスにとってダーウィンはいましたが、マクルーハンにとってそういう先人がいたかはわかりません。強いて言えば、イニスはそうなのでしょうか。方法としては文化人類学的だなと感じます。
そういう研究は面白いのですが、僕がやるには、全世界の全時代的な知識がまだまだ欠けていると感じます。
ほんとよくあれだけの固有名詞や事例を広範に持ってこれるものだなと。ある地域に詳しい、ある時代に詳しいというなら誰でもできる気がしますが、あらゆる地域と時代に詳しいというのは、人生経験・研究経験のたまものでしょう。
とはいえ、メディアの研究をメディア内容の研究にとどまらない、人類史的な観点からまとめた点はやはり面白いです。いつかこういう文章が書けるようにと目標にして、もう少し小さなところからインターネットのことを考え始めたいと思います。
木村すらいむ(@kimu3_slime)でした。ではでは。
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