どうも、木村(@kimu3_slime)です。
ジョン・ロック「統治二論」を読みました。
ロックはホッブズ・モンテスキュー・ルソーと並び、啓蒙思想・社会契約説を提案した人びとのひとりです。
彼の思想は、のちのフランス革命・アメリカ独立革命、立憲君主制に影響を与えたと言われています。
読んでみると、政治の本というよりも、神と人間の関係性、統治の正当性を論じている本でした。
敬虔なキリスト教徒としての論理が興味深かったので、紹介したいと思います。
王権神授説・家父長制への反抗
ジョン・ロックは、1632年・イングランドに生まれました。
ピューリタン革命を経験したという点では、ほとんどホッブズと同じ境遇ですね。
参考:戦争をやめたいなら、みんなで権利を手放そう ホッブズ「リヴァイアサン」を読む
本の後半部分では、自然状態や平等といった言葉が登場するので、「ホッブズの焼き直しでは?」と思う部分がないわけはありません(笑)
さて「統治二論」は、王権神授説と家父長制の否定から始まります。
同時代のフィルマーという人が、「人間は生れながらにして自由ではない」「国王の権力は、神から継承された父の権利だ」と主張していて、それが流行っていました。
その風潮に対し、聖書にはどこにもそんな記述がない、と証明したんですね。
「人間は自由ではない、なぜならそれは神の創造性を否定するからだ」という考えが主流であった中で、「神があるからこそ、人間は理性と主権を持っているのだ」と主張しました。
人間が、すべて、ただ一人の全能で無限の知恵を備えた創造主の作品であり、主権をもつ唯一の僕であって、彼の命により、彼の業のためにこの世に送り込まれた存在である以上、神の所有物であり、神の作品であるその人間は、決して他者の欲するままにではなく、神の欲する限りにおいて存続すべく造られているからである。
引用:統治二論 p.193
国家というものがないとき(自然状態)の人間はどのようなものか、ホッブズは「万人の万人に対する戦争状態」と捉えました。
それに対し、ロックは「自然法である理性が、他人の生命や財産を侵害しないよう教えてくれる」と考えます。
「人間は平等にできている」という部分は共通しますが、自然状態を「戦争状態」とするか「理性はあるが平和とも言えない状態」とするかが違うわけです。グロティウスが考える人間の本性に近いですね。
参考:人間の本性は、協力関係だ グロティウス「戦争と平和の法」を読む
ロックは、人は自然状態では理性を持って生活しているけれども、生存や財産が脅かされた時に、それを訴える先となる共通の権力がなければ戦争状態になると考えました。
ともに理性を持った人同士が争うことになっても、権威がなければどちらが正しいのか判定できませんよね。しかもそれが共通の権力でなければ、どちらか身内の方に肩入れすることになってしまいます。
そこで国という共通の権力を作りましょうというわけです。
その目的は、生命や財産や自由(プロパティ)を守ること。
そして、そのための罰則を法として制定し、公共の善のためにそれを実行しましょうと。
人間の平等・生命の保証・自由を守ることがまず出発点にあって、そのために国家は作られる。こういった社会契約説は、近代のどの国民国家でも見られるものですね。
ロックは、より具体的には立法権と行政権を分ける(三権分立論)ことを提案しました。
自然状態に足りないものは公正な法・その執行で、それを人々に由来する公共の権力で縛りつけて監視する、パワーバランスをとる考えも面白いです。
これはのちにモンテスキューによって三権分立論として発展させられるものですね。
ロックの言う「抵抗権」とは?
もうほとんど話は満足なのですが、最後にロックが提唱したと言われている「抵抗権・革命権」の話をしましょう。
抵抗権・革命権と言った場合、近代市民革命(アメリカ独立戦争・フランス革命)の基礎となった、ジョン・ロックのそれを指すことが多い。
確かに、フランス人権宣言やドイツ基本法、アメリカ独立宣言には「抵抗権」呼ばれるものが存在することは納得できるのです。
その抵抗とは、原典においてどのようなものだったのでしょうか。
強いて言えば、18章「専制について」と19章「統治の解体について」の話が近いでしょうか。
君主の命令に抵抗してもよいのだろうか。(中略)
私は、実力をもって抵抗すべきはただ不正で不法な暴力に対してのみであり、誰であれそれ以外の場合に抵抗を行う者は神と人間との双方から正当な非難を受ける
引用:統治二論 p.356
ロックは、君主が私利私欲のために法律を無視して行動した(専制の)ときは、実力をもって抵抗してよいとします。法を守っているかどうかが重要なポイントですね。
この部分は、暴力的な革命を促すものとは思えません。
権利なしに実力を行使する者は誰であれ、法なしに社会のなかで実力を行使するすべての人と同様に、彼がその実力を行使する相手の人々との戦争状態に身を置くことになる。そして、この状態においては、それまでの拘束はすべて無効となり、他の権利はすべて消滅して、各人は、自分自身を防衛し、攻撃者に抵抗する権利をもつのである。
引用:統治二論 p.376
ここでは「抵抗する権利」という言葉が登場します。支配者が法を無視して実力行使をし始めたら、それは戦争状態であり、そこでは抵抗権を持つ、生存権を行使する力を取り戻すというわけです。
自然権は人々が一旦国家に預けただけであって、もし国家が不正を働き、プロパティ(生命・財産・自由)を守らないならば、権利は人民に戻ってくる。これはまともな発想だと思います。
ロックは、自由や生命を国家が不法に侵害してきたとき、法に訴えられないときに権利を取り戻せるという考えを持っていますね。
国家に対する単なる反逆は、別に抵抗権には該当しない。自由や人権が侵害されたときに限って、抵抗権が認められる。
革命権はいつでも革命を起こせる権利でもないし、抵抗権がその最初においてデモを起こす権利であったわけでもない。そこだけは知れて良かったです。
ロック「統治二論」は、その根本がキリスト教精神にもとづくもので、普遍性があるとは言い難いです。
とはいえ、その神への信頼がなければ、人民とその理性への信頼もなかっただろうと思うと、国民国家というのは悪い意味ではなくキリスト教的だなあと思います。
次はモンテスキュー「法の精神」を読んでみたいですね。
木村すらいむ(@kimu3_slime)でした。ではでは。
中央公論新社
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