どうも、木村(@kimu3_slime)です。
ホッブズ「リヴァイアサン」を読みました。その「万人の万人に対する闘争」というフレーズは有名ですよね。
プラトン「法律」やグロティウス「戦争と平和の法」を読み、いよいよホッブズ・ロック・モンテスキュー・ルソーという、これまでの国家・法律を作り直そうという動きを知りたくて読んでいます。
本のタイトルになっているリヴァイアサンは、旧約聖書に登場する怪物です。それは何のバックもない人間よりも力強くて大きな存在、国家(state)のたとえなんですね。
そういうリヴァイアサン・国家は、人間によってどのように作られるのか。それが本書のテーマです。
近代の自然科学のように、あたかも機械を調べるように国家を見つめ直すその姿勢は、プラトンやグロティウスにはないもので、面白かったです。今回はその一部を紹介しようと思います。
自然状態を想定すると、それは戦争である
ホッブズは、1588年・イングランドで生まれました。
デカルトとも交流があったようで、その機械論的な世界の捉え方は似ています。
1640年代のイギリスでは、ピューリタン革命が起こっていました。国の権力は神から授かったものという考え方の絶対王政があり、それに対する宗教的な自由を求めてピューリタンが立ち上がったというものですね。
ホッブズは、このピューリタン革命後の1651年に「リヴァイアサン」を書きました。
「国家は人間を真似して作られた人工的な人間」とした上で、国家の材料である人間の感覚、知性、宗教を自然科学的に記述していきます。
その人間観は、人間同士が争いをすることがベースになっています。グロティウスの「人間の本質は協力関係だ」という考え方とは全くの別物ですね。
どうして人は争うのでしょうか。グロティウスは、男女や個体によって大きな能力差はなく、人は生れながらにして平等と考えました。これは当時としては先進的な考え方ですね。
しかし、その平等が争いを生み出すと言います。住む場所、土地、食料など、同じものを求める人同士は競争関係になってしまう。
もちろん協力関係はあります。しかし、人間の歴史を振り返ってみると協力は全てではなく、むしろ戦争状態は多かった。実際、ピューリタン革命では内乱が起こっていたわけです。
人々を制圧する権力がないところ、国家のない状態を、彼は自然状態と呼びました。自然状態では、各個人が戦争せざるをえない。
人びとが、かれらすべてを威圧しておく共通の権力なしに、生活しているときは、かれらは戦争とよばれる状態にあり、そういう戦争は、各人の各人に対する戦争である、ということである。すなわち、戦争は、たんに戦闘あるいは闘争行為にあるのではなく、戦闘によってあらそおうという意志が十分に知られている一連の時間である。
引用:リヴァイアサン〈1〉 p.210
自然は人を平等に作った、平等だからこそ競争や不信が生まれ、それが戦争を生み出す。
それが全世界で実際に起こったかどうかはともかく、そういう自然状態を初期段階とするモデルの上に国家を作ろうと考えたわけです。
そこにはやはりデカルト的なもの、人間が持つ精神・理性への信頼があるように感じますね。
戦争をやめるには、権利をみんなで手放すことだ
そういう自然状態がある上で、戦争が起こらないように国家を作るにはどうしたら良いのでしょうか。
自然状態では、人は何でもする権利(自然権)を持っています。財産を奪い、命令に従わせることもできてしまう権利です。
そこでホッブズは自然法を提案します。その内容は、「平和を求め、あらゆる手段を使って自分たちを守れ」というもの。いわば生存権ですね。
そして、平和を求めるために必要な限りは、自分の好きなことをして良いという権利(自然権)を捨てるべき。他の人も同じように、みんなで自然権を捨てようということです。
人は、平和と自己防衛のためにかれが必要だとおもうかぎり、他の人もまたそうであるばあいには、すべてのものに対するこの権利を、すすんですてるべきであり、他の人びとに対しては、かれらがかれ自身に対してもつことをかれがゆるすであろうのとおなじおおきさの、自由をもつことで満足すべきである。
引用:リヴァイアサン〈1〉 p.218
つまり、ホッブズの自然法を簡単に言ってしまえば、「自分がされて嫌なことは人にするな」ということ。平和を望むならば、みんなでその約束を守りましょうということですね。
これは小学生でも理解できる考え方です。「俺は嫌な思いしてないから」とは真逆ですね。
そして、この自然法を、単なる口約束ではなく、人々の間の契約にしましょう。その契約を守らせるには、人々が共有する力、公共の権力が必要となる。
この流れが、ホッブズのいう社会契約、(市民)国家の作り方ですね。
自然状態では人々は自然権を行使して戦争になる
→平和を望むなら、みんなで自然権を放棄する必要がある
→権利放棄の社会契約を守らせるために公共の権力が必要になる、それが国家
ということでしょう。
ルソーの「社会契約論」より、社会契約とはどういうものなのかが、シンプルに描かれていて飲み込みやすいですね。
ピューリタン革命後のイングランドは、共和制になりましたが、王政に戻り(王政復古)、1707年にスコットランドと合同してグレートブリテン王国になります。
17世紀から18世紀にかけて、イギリス、フランス、アメリカでは革命が起こり、人民主体の新しい国家・法の支配を生み出そうという流れがあったんですね。
その裏には、ホッブズのような思想があったわけです。
神があって人間があるというよりは、自然があって人間があるという世界観は、もはや現代という気がしますね。
「絶対王政・宗教による支配なんてなくなれ!」という考え方は、きっとその時代になれば誰でもしていたことです。
そのなくなった後のあり方を、ホッブズ(やコント)のように考えていきたいですね。
木村すらいむ(@kimu3_slime)でした。ではでは。
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