どうも、木村(@kimu3_slime)です。
僕はインターネットと古典が好きで、それをメインに活動していきたいと思っています、という話をしました。
そこでは「人と人はなぜ理解しあえないのか?」を根本の問いとし、その部分的な問いとして、インターネットが生み出す文化を研究したい、という流れを導きました。
さてこの根本の問いをする前に、そもそも僕には前提として持っているスタンスがあることに気づきました。あらゆる問い・活動の前提にある信仰の話です。
それが「愛」の話です。一度これを言語化しておこうと思います。
愛を持って生きる
ここでの「愛」というのは、ものごとの良い面を見る力、悪いことがあってもそれが良いことに変わりうることを信じる力です。
つまり、「人と人はなぜ理解しあえないのか?」という問いは、人が幸せに生きることを願っての問いだ、という前提があるわけです。物事を悲観的に考えてはいません。
じゃあ楽観主義者(オプティミスト)なのかというと、そういうわけではありません。愛は盲信とは違います。
まず事実が何なのかをできるだけ中立に判断し、悪いことはそのままに受け止めたいと思います。その上で、悪いことは悪いとネガティブに捉えるのではなく、そういう側面は必要がなければ無視するか、あるいは改善しうるものとして注目したいです。
恋は人の好きな部分だけを見る状態で、愛は欠点を含めて受け入れるもの。恋は与えられる気持ち良さで、愛は与える気持ち良さ。自己への執着ではなく、他者への関心を持つ(所属感は共同体に対する積極的なコミットによって得られる。参考:アドラーの共同体意識)。愛は負担の大きなものですが、それが長続きする仕組みでもあります。
僕は、できるだけ多くの人々が幸せに、自由に暮らせますように、と考えています。しかしそれが難しいのは歴史を見れば明らかです。とはいえ、より良い世界が現実に訪れるように努力してきた先人がいるのもまた事実です。
哲学(知を愛すること)、政治、法、科学は、あまねく人々に愛をもたらさんと、愛の制度を作ってきました。人は間違うものです。そこを出発点に、より良い状態を目指したいですね。鈴木敏夫さんの言う、「理想を失わない現実主義」を持ち続けたい。
愛は思想であり、それだけではそれを実現する力を持っていません。実践のために必要なのが、知識と知恵ですね。真実が何かを知らなければ、愛はまともな判断をすることができません。
気持ちよく記事を書くための心構え
さて上で述べたような愛の話を、僕は生き方やブログに適用しています。
記事を書くときには、次のような心構えを持っていきます。
- その先に人の幸せがあるかどうかを考え、人・コンテンツの価値をより高めることに貢献する。
- 良いところ、好きなところ、面白いところ、価値を生み出しているところに注目する。
- ネガティブを吐き出すだけ、ストレス解消の手段にしない。ヘイトスピーチ・煽りにしない。
- 事実把握あっての価値判断ということをわきまえる。
- 事実把握に努め、誤っていたときには訂正する。
- 価値判断には人を幸せにも不幸にもする力がある。
- 「くさいものに蓋」をしない
- アングラ・非倫理的だからと言って取り上げない、ということはしない
- ネガティブに判断されがちなことを扱うときは、とくに価値判断を混ぜず、事実をベースに語る
こんなところでしょうか。愛に生きていきます。
木村すらいむ(@kimu3_slime)でした。ではでは。