自分の生に何の意味があるのだろう。普段はそんなことは考えないが、自分の生活を、仕事を人に説明するときに、少し考えてしまった。
日銭を稼ぐことや、自分のために物を買うことには、自分に対する価値はあれど、一般の他者に対する価値はあまりない。自分が生きる・生活することは楽しいけれど、それは他人にとってほとんど関係がないことだ。
人生には、やらなければいけないことがある。高校生くらいの頃から、そんな感覚を抱いている。別に何かしなければならないということではないし、何もせずに死んでも良いが、それでも何か人のために、社会のために一仕事した方が楽しいのではないか。
今回は、僕が人生の中で何を為したいと思っているのか、それについて書いていく。
人と人は違う……なぜ?
僕の人生における大きな問い・課題は、人と人はなぜ理解しあえないのかを知りたいということだ。人の違いを生み出すもの、人を動かすものは一体なんなのだろう。
例えば僕の小さい頃だと、オウム真理教の地下鉄サリン事件が世間を騒がせていた。事件の報道はセンセーショナルで話題にはなっていたが、肝心のオウム真理教とは何なのか、なぜそんな事件を起こそうと思ったのか、それはテレビを見ているだけではわからなかった。
2001年には、アメリカで同時多発テロ事件が起こった。なぜテロリストは自らの命を捨ててまで飛行機をぶつけたのか。サダム・フセインやオサマ・ビンラディンとは何者なのか。イスラム教とは何なのか。それはわからないけど、いつの間にか戦争は起こっていた。
お互いの立場はよく知らない状況であっても、事件は起こる。
僕の家でも、母と父が喧嘩し、離婚することがあった。両親は共働きで、仕事で忙しい中で、家事の分担についてもめていた。「喧嘩しないで仲良くしてくれ」と願っても、それに効果はなかった。母と父は、育ってきた家庭環境や、働き方が違った。
母子家庭になってからは、母と娘(妹)が喧嘩することが多かった。母には母の、妹には妹の事情があるのはわかったので、僕は仲裁役をしていた。同じ家族であっても、それぞれが経験していること・置かれている立場は違った。
参考:どうか、伝わらないコミュニケーションを続けるのは、やめてくれ。ぼくが手伝うから。
やがて僕は、人と人の衝突は、必ずしも彼らに原因があるのではない、と考えるようになった。
つまり、人は自らの行動・思考によってできあがっている部分は少なく、家庭・教育・友人の環境や、仕事・経済・技術・思想・宗教といった社会的なシステムに動かされている。
個人に原因を求めるのではなく、個人を突き動かすシステム・文化のことを知りたいと思うようになった。
インターネットが生み出す文化
一方で僕は、中学生くらいの頃から、インターネットが生み出す文化に興味を持つようになった。
インターネットの出現によって、新聞記者やテレビ局以外の、普通の人が情報発信するようになった。口コミが可視化された。
ネットがなければつながるはずのない人たちが、コミュニケーションしている。それを第三者である僕は、自由に楽しんでウォッチできる。
多様な思想・倫理観・文化があることが、家にいながらにしてわかるようになった。
ネットではさまざまな個人が行動するのが見えるけれど、その行動の傾向は、ウェブサービスによって違うのも面白い。
ホームページ、ブログ、匿名掲示板、ニコニコ動画、Twitter、Facebook、LINE……人が集まると、独自の文化が生まれる。
その観察は僕の生きがいだ。
特に僕は、ニコニコ動画、にちゃんねる、Twitterの、おふざけが多く、ややアングラな文化が好きで、このブログではそれを調べている。
インターネットはこれからますます利用されていくにもかかわらず、その変化のめまぐるしさから、よく研究・理解されていない。
僕はブログを通して、インターネット上の奇怪な行動や、伝搬する流行を、これからを生きる人にわかりやすく伝えていきたい。
現在・個人を超えた理解を得る方法
現代・インターネットをいくら眺めていても、それを分析・相対化する視点・方法を持っていなければ、自称分析家・自称研究者にしかならない。
話題になることと、基礎がしっかりしていることは違う。ネットで流行る思想や、過激な文章は、確かに影響力があるとは思うが、視野が狭く慎重さに欠けることが多い。
人の考えは、周囲の考えによって容易に流される。自分自身の考えというものは究極的には存在せず、周りにいる人間とのコミュニケーションや、国家・思想・技術といった大きな枠組みによって生み出されている。
今のインターネットは、人間は、どういうものなのか。それは「現在」を「個人」が眺めているだけでは、一から説明できない。
時代性と個人性を超えた考え方を使わなければ、ネットや人間をよりよく理解することはできない。
時代や社会に埋め込まれた自分を知るためには、学問・古典が役に立つ。
かつての学者以外に、人間・自然・世界のすべてを最もよく理解していた人はいない。
思考の細分化傾向
学問を利用すると言っても、僕は学問が持つ細分化傾向に気をつけたいと思っている。
大学での学びは、深くなるにつれ、細くなっていく。
僕が専門としていた数学で例を紹介しよう。1年次は微分積分学と線型代数学を学ぶ。これは理工系の学生なら誰でも使うような教養レベルの内容である。2-3年次になると、現代数学の基礎となる集合・位相論を学び、代数学・幾何学・解析学とおおざっぱに3大分野に分かれる。4年次になると、例えば解析学は、実解析・複素解析・関数解析・微分方程式・確率論と、さらに細かくわかれていく。
大学院で学ぶ数学の奥深さに驚き、面白いと思ったが、奥が深くなればなるほどに、社会や根本的な問題から遠ざかっていくことに疑問を覚えた。
専門分野に踏み込むと、同じ解析学が専門の友人の話であっても、わかることが少なくなっていく。大分野が異なると、よりわからなくなっていく。数学を専門としているのに、数学全体のことはまるでわからなくなっていった。
また、他の学科・学部の話となるとなおさらわからなくなっていく。(理工系)大学での学びは専門化し、他分野の内容が遠ざかっていく傾向がある。また、世間にも疎くなっていってしまう。
研究は面白いけれど、多様な人間の考え方を知り、考える機会がなくなってしまう。これが嫌で、僕は社会に出よう、働こうと思った。
細分化の傾向は、学問に限らない。インターネットもそうだ。
検索エンジンやウィキペディアの情報は、とんでもなく詳しいけれど、項目ごとに細かくわかれている。サイバーカスケード、フィルターバブルやエコーチェンバー現象と言った言葉が一部で使われ、ネットによって個人の視野が狭くなる現象が注目されている。
細分化すること自体を悪だと言うつもりないが、その傾向には自覚的でありたい。
古典を知り、今を相対的に考える
つまり、現代やインターネットには、全体性や体系性が欠けている。
この全体を眺める意識の不足は、人と人の無理解や、文化と文化の衝突につながっていくだろう。
だから、僕は体系的な知をもたらしてくれる古典を読む。
古典を読むと、現在では離れ離れになっている知識を、系統づけることができる。
例をあげよう。アダム・スミスの作った近代経済学は、ニュートンの近代物理学を参考にしています。こういった近代学問に共通する「すべての現象をシンプルな基礎から説明する」理性的なやり方は、哲学者ルネ・デカルトによるものです。デカルトがなぜ理性を強調したかといえば、「教会に行かずとも信心のみで救われる」というルターによる宗教改革からの流れがある。
経済学、物理学、哲学、宗教は、現代の学問分類ではバラバラだが、歴史的には互いに大きく影響を受けてできあがったものだ。そういうことが、古典を読むとだんだんとわかってくる。
大昔の本の方が、問題としているテーマは根源的で幅広い。プラトンの「国家」はテーマが「良い人、良い国とは何か」で、哲学書と言っても極めて実際的な内容で読みやすく驚いた。哲学がバラバラにされ難解になったのは、近代以降のことだったのだ。
時間が経つにつれ、学問が扱うテーマは細かく複雑になっていく。そりゃ、ものわかりの悪い僕が現代の学問を理解できないのも仕方がない。
現代の人間・社会を作り上げた、複雑な歴史。僕は古典を読んでいくことで、少しずつ人間・社会と言うものを理解する力をつけようと思う。
そうすれば、人と人とがより理解しやすくなり、インターネットのある世界も良くなっていくのではないか。
今回は大きなテーマで述べたけれど、僕個人ができるのは小さなことでしかない。
面白い観察対象であるインターネットをウォッチし続け、ブログでわかりやすく紹介する。空いた時間で古典を読み、ネット・現代がどういうものかを、広い視点から解説できるようにする。これをやっていく。
僕の人生にとって大切なことは、インターネットと古典、その二つだけだ。